2017年6月26日 (月)

草部吉見神社

熊本県阿蘇郡高森町にある草部吉見神社には神武天皇の第一皇子とされる日子八井命(国龍神)が祭られています。ここはまた群馬県の一之宮貫前神社、宮崎県の鵜戸神宮とともに日本三大下り宮としても知られます。社殿がある場所はもとは池で、日子八井命は神武天皇東征の時、高千穂より五ヶ瀬川に沿ってこの地に来て池の大蛇を退治し、池を埋めて宮居を定め、その館は草を束ねて壁とされたことからこの地方を草部と呼ぶようになったと言われています。

 

画像1.下り宮の参道

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阿蘇地域でよく見られる猿田彦石はここにはありません。例大祭のお神輿の先導役としての猿田彦も登場せず、先導するのは日子八井命が草部に入った時、木本家の先祖が道案内したという神話伝承に基づいて今も木本家の方が白装束で先頭に立たれるとのことです。

 

画像2.社殿

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画像3.由緒書

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その際に、梅の枝で地を引きずるようにして歩くのですが、この所作が出雲佐太神社の「神等去出」の神事に似ていることから、草部が出雲との交流があったのではないかとも考えられています。例大祭が近づくと、アオハゼ(青萱で編んだ薦)が編まれ、お神輿が立寄る“浜床”というお旅所の壁材に使われます。有明海では今もこの薦を使った漁が残っていて、かつて草部一族が海洋民であったことの名残とも見られているようです。

 

画像4.塩井社へはさらに下って行きます。

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また一説によれば、草部吉見神は海幸彦のことであり、今の中国南部の雲南省麗江⇒海南島⇒天草の苓北町⇒熊本市東部の嘉島町⇒阿蘇と辿って来た渡来人で、先住の支配者であった高木大神の傘下に入り、高木大神一族の入婿となった、だから草部は伽耶部の意味であるといいます。

 

画像5.昔の小学校校歌碑

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草部吉見神社の周りには幾つかの神社があります。中でもスサノオを祭る“牛神社(うしがみしゃ)”は小さな社殿ながら立派な造りで近年まで信仰厚かったことがうかがえます。牛神という地名も残っていて伝承では日子八井命を出迎えた土地の神といわれながら草部吉見神社由緒書には何も語られていません。

 

画像6.小規模ながら立派な社殿

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そして日子八井命は神武東征の逆の道をたどって日向から草部に着いた健磐龍命を迎えたという伝承も、宮内庁にある異本阿蘇氏系図によれば、科野(長野県)の国造と阿蘇国造とは同根で、健磐龍命は“武五百建命”の別名とあり、その系図の説明では武五百建命は科野との関係が深く、“健磐龍命=武五百建命”は本当は草部(阿蘇)には来ていなかったことも考えられるようで阿蘇神話を根底から揺るがします。

 

真相はどうだったのでしょうか。草部吉見神社の東300mには“彦八井命御陵”(参考地)があります。玉垣の石柱には寄贈者として“八井”姓が記されていました。今も御子孫が県内にお住まいなのでしょう。

 

画像7.日子八井命御陵(参考地)

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画像8.神社の東に広がる棚田。古代より十分な食料生産能力があったことをうかがわせます。

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2017年5月27日 (土)

無田原遺跡

貴重な遺跡なのにあまり知られていないという所はたくさんあると思いますが、この熊本県菊池郡大津町矢護川片又にある“無田原遺跡”もそのひとつです。

画像1.西側から見た遺跡と鞍岳の風景。以前は隣に大きな養鶏施設があって見通せませんでしたが、昨年の熊本地震後に撤去されました。

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集石遺構といえば東北・北海道で九州にはないと言う人もいます。ところがこの無田原遺跡は縄文早期のものとされ日本で最も古く、しかも隣接して弥生時代前期の甕棺も出土しているというたいへん珍しい遺跡です。石がある辺りは周囲より少し高くなっていて土砂流出防止のためコンクリートで枠取されています。石の間も石が散逸しないようコンクリートで円形に固められており、この東西に並ぶ三つの円の並びがオリオンの三ツ星を連想させます。

画像2.東側から見た遺跡。ちょっと見オリオン三ツ星風ですが正確ではありません。

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画像3.なんとなくストーンサークル?

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長い年月ここには同族の人達が代々住み続けていたのでしょうか。集石遺構は墓か祭の跡と考えられているようですが、どちらにしても霊や神と人を結ぶ媒体として石を用いるという文化の始まりのように思えます。

画像4.県が設置した遺跡案内です。

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画像5.大津町が設置した案内板です。

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画像6.7000年前の南の星図。オリオン三ツ星が南中したときの高さは現在より約26度低い位置にありました。大きく迫って見えたと思います。

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2017年4月30日 (日)

千田聖母八幡宮

熊本県山鹿市鹿央町千田に“千田聖母八幡宮(ちだしょうもはちまんぐう)”という、創建が反正天皇三年(AD408年)とされる古い神社があります。この神社は大和朝廷以前に遡る九州王朝時代の痕跡を留める高格式の神社であると考える神社研究者もいます。

画像1 神社参道


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この神社は現在の山鹿・菊池にあった古代湖“茂賀浦”が弥生時代前期頃に陸化した辺りにあります。この茂賀浦の汀線は縄文時代の末期には標高45mライン位にあり、次第に湖は後退していって、弥生前期には標高37m付近(古閑地名が多い)、弥生中期には30m付近(島地名が多い)、そして弥生後期には茂賀浦は消滅したといわれます。この神社が創建されたという時代には北側に稲作に適した肥沃な大地が広がっていたことになります。

 

画像2 古代湖“茂賀浦”。かつては50mライン近くまで水で覆われていました。


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この神社の鳥居に掲げられた神額や案内板には千田(聖母)八幡宮・聖母宮・八幡聖母宮などとあって統一感がありません。楼門に辿りつくと扁額には“霊廟”とあります。霊廟といえば先祖の霊をお祭りするところで、通常は神をお祭りする神社とは分けられるものです。

 

画像3 “霊廟”と書かれた扁額。

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拝殿横の由緒書を見ると主祭神は神功皇后、相殿は應神天皇・仲哀天皇となっています。“聖母”とは神功皇后のことなのでしょうか。参拝を済ませ周りを見回すと拝殿にある御神紋は八幡宮によくある“三つ巴”の紋ではなく“五七の桐”です。これは高良玉垂命の紋で、神功皇后は “三五の桐”と聞いています。

 

画像4 由緒書


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本殿の大棟にも“五七の桐”があり、千木は男神を示す外削で、鰹木も奇数の三つになっています。近年は宮司さんでもこの千木の意味を軽んじることがあるようですがそれは誤りで、この神社の場合も元々の祭神は神功皇后ではなく、どの時代かで入れ替えがあったと先ず見るべきだと思うのです。

 

画像5 大棟の神紋・千木・鰹木は祭られているのが男神であることを示しています。


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では元はどなただったのか、私にわかるはずはないのですが、こういうときは格下扱いになっている祭神の中に本当の、格式の高い神がおられると神社研究者の間では考えられているようです。この神社の由緒書からいえば厳島之大神(瀛津嶋姫命)・住吉之大神(五七桐紋 高良玉垂命?)・武内神社(武内宿禰)というところでしょうか。

 

熊本県神社誌でこの神社を見ると祭神は“神功皇后外二神(七柱)”と一纏めになっているのに境内社はそれぞれに神名が記されています。末社の神々だけでも秘められたものがありそうで、祭神の詳細には意識的に触れていない感じを受けてしまいます。この神社の実の主は男神であり、神社研究者の説にあるように高良玉垂命ではなかろうかと思いました。因みに武内神社は武内宿禰、安部神社は安部助麿、若宮神社は仁徳天皇、諏訪神社は建御名方命、赤池天満宮は菅公等となっています。

 

画像6 境内社の諏訪神社と猿田彦大神石(2基)


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境内の末社、猿田彦大神へのご挨拶も済ませて境内の端にある古い手水舎まで来たとき、その水盤に目が留まりました。そこには“三つ柏紋”がありました。柏紋にある葉脈の数は定まっていませんがここにあるのは葉脈が六本の“メノラー(七支樹)”タイプです。奉納は慶應4年(AD1868年)で、武内何某と彫ってあります。あの武内宿禰ゆかりの方なのでしょうか。

 

画像7 あまり見かけない “三つ柏紋”


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神社研究者が言うように、ここには日本を代表する王朝が7世紀末まで九州にあったとする九州王朝説を考える上での重要なヒントが、祭られた神々とその祭られ方にあるように思われます。








2017年3月31日 (金)

浄水寺跡(御手洗水源)

熊本県宇城市豊野町に奈良時代から平安時代初期にかけてこの地域で大きな勢力を誇った浄水寺というお寺がありました。浄水寺は西暦828年に肥後国で国分寺に次ぐ寺格を有する寺院である“定額時”に定められた古代寺院です。しかしこの寺については残された資料が少なく調査研究してもその実態は謎に包まれており幻の寺院とも呼ばれているそうです。

画像1.浄水寺跡地入口。周辺より一段高くなっていますが、敷地としては広くありません。28年の熊本地震で浄水寺跡地の建物等は倒壊し、石碑も被害を受けました。右側の道路下が御手洗水源です。

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そんな中でほぼ唯一の資料が“浄水寺碑”と呼ばれている“南大門碑(790年)”、“燈籠碑(801年)、“寺領碑(826年)”、“如法経碑(1064年)”の4基の石碑です。現在日本で確認されている古代石碑は23基、現存するもの17基でそのうちの4基がこの寺跡に残されていて熊本県の非常に貴重な文化財となっています。これらの石碑群は平成2794日に“天保2年修理記念碑(1831年)”とともに国重要文化財に指定されました。


画像2.南大門碑(宇城市の
HPより転載)。

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画像3.左側より寺領碑、如法経碑、燈籠碑(宇城市のHPより転載)。元々これらの石碑はここにはなく、保全のために集められたものです。石碑の石笠も天保2年の修理の際に取り付けられました。燈籠碑の台座にはたくさんの盃状穴があります。

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そんな寺跡がある台地の下から湧き出ているのが浄水寺の池または御手洗水源(みたらいすいげん)と呼ばれている湧水池です。その池の縁には巨石が一つあり、昔々には池の中にあったように見えます。

画像4.御手洗水源全景。

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この巨石の表面にはいわゆる盃状穴があります。寺跡の燈籠碑の台座にもたくさんの盃状穴があるのですが、そちらとも関係するものなのか、また石碑と同年代なのかも判りません。湧水池の巨石にあるものは、大きなものは大人の拳ほどの、全体の配置はちょっとみると北斗のようなスバルのような穴の配置です。

画像5.水源池にある巨石。盃状穴と線刻があります。時代は不明です。

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よく見ると北斗よりはスバルに似ているように思います。穴の大きさは星の輝きの大きさに合っているようでもあります。その穴の一つには何か流れ出ているような線刻があります。


画像6.スバル(プレアデス星団 Wikipediaより転載)

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もしかするとこの寺が隆盛を極めていた時代、例えば西暦750年頃、この巨石の盃状穴と線刻の図柄は東西に伸びる天の川(=湧水池)に沿って天頂を中心に対称の位置にあったスバル(=地上の大王)と白鳥座の翼(=天下る磐船)を重ね合わせたものではないか、ここで星の祭祀が行われていたのではないかと想像しています。


画像7.西暦7501112050分頃の星空。白鳥座の翼部分は帆柱を立てた船を横から見ているようです。

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平安時代が始まり暫らくすると藤原氏によって星への信仰は遠ざけられていきます。浄水寺が廃寺となったのも、星信仰の衰亡と無縁ではなかったのかもしれません。









2017年2月27日 (月)

阿蘇谷の神社と星

鎌倉在住のKさんが書いておられる“鎌倉、まぼろしの風景”というホームページがあります。コンセプトは“イメージの翼に乗って「星月夜の鎌倉」を妄想するページ”ということで、古代の星の位置と地上の風景の関係を調べて、それをWebで公開されています。ホームページにはたくさんの記事が掲載されていますが、その中に228.阿蘇神社と鶴岡八幡宮”と題したものがあり、興味深い内容が紹介されていました。記事に登場する神社についての資料が少なかったので、その中の阿蘇谷西部にある神社を実際に訪れてみました。

Kさんの記事に登場する阿蘇谷西部にある神社の相互の位置関係は図1のようになります。相似形の二組の配置があり、阿蘇神社と湯浦八幡宮の東にスバルが昇ったとき、その西側にある彦星(アルタイル)と織姫星(ベガ)の下に神社がある、そのような神社と星の位置関係となるような空間設計がされているというのがKさんの見方です。

画像1.五つの神社の位置関係

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図1の南側から順に訪ねてみます。先ずは菅原神社(画像2)。祭神は当然ながら菅原道真公で、狭い境内の一角には石が祀られていました。とても大事にされているようすがうかがえます。天の石位が降りているといった雰囲気があります。ここは彦星の下です。

 

画像2.菅原神社

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次は阿蘇神社なのですが、よく知られていますし、先の地震でたいへんな被害を受けて復旧作業中ですので、今回は省かせていただきました。そして西小園八幡宮です。祭神を記したものはありません。八幡宮であれば比売大神ほか二神というところですが、地元では“お伊勢さん”と呼ばれるらしいのです。確かに拝殿奥には菊の御紋章がありました。

 

ASO田園空間博物館によれば、この神社の由緒は次の湯浦八幡宮と同じとされ、別名“女蜂神社”と呼ばれるそうです。またこの地域の耕地整理のため居場所がなくなった神社の神々もここで祭られているということでした。ここは阿蘇神社から見ると織姫星、湯浦八幡宮からみると彦星の方向にあたります。

 

画像3.西小園八幡宮

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次は湯浦八幡宮です。創建はAD985年で祭神は応神天皇。案内板には“今から約千年前に平将門公が朝廷に背いて天下の大乱となった時、数千とも知れぬ男蜂の大群がここから飛び立ち、将門軍を襲い大乱も平定されたといわれ、別名「男蜂神社」とも呼ばれている”とあります。ここから西湯浦八幡宮を見た方向に織姫星があります。

 

画像4.湯浦八幡宮

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最後に織姫星の下にあたる西湯浦八幡宮です。この神社はAD993年に宇佐神宮の御分霊を勧請したとのこと。旧暦の77日に祭典があり、通称“七夕さん”と呼ばれ、織姫と牽牛の伝説でも知られているそうです。主神は応神天皇・神功皇后・高木入売命とありますが、拝殿横の賽銭箱には“三社 八幡宮・足手荒神・大将軍”と書かれています。大将軍とは彦星のことです。

 

画像5.西湯浦八幡宮

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以上四社を駆け足で訪ねましたが、なるほどと思わせるものがありました。Kさんはこうした空間設計の時代としてAD700年頃を中心にした数百年間を想定されていて、その大きな理由は、その時代の北極点と、南中した一万四千年前の北極星織姫星が描く大きな円がその時代だけ歳差の円を夜空に表していたからだといいます。そして七夕祭とは大昔に織姫星が天の中心の北極星であったことを忘れないための祭であるとも。

 

星は天球上を絶えず移動し、その速度はけっこう速いものです。そんな星のある一瞬を捉え、地上の風景と特別な空間を作り出していた。星から遠くなった現代人にはイメージしにくいことかもしれませんが、古代のある星の位置が基になった道や建物配置というのは、身近なところに意外と残っているのではないかと思いました。

 

画像6.阿蘇神社から見たアルタイルとベガの光跡 (AD500年)


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画像7.湯浦八幡宮から見た天の川を挟んで向かい合うベガとアルタイル (AD700年)

天の磐船(白鳥座の翼)が天の川の中を降りてきます。

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2017年1月30日 (月)

矢岳の巨石

このブログは同名のHPからの引越しから始まりました。熊本県関係の過去記事の移動がまだ終わっていませんので、今回はその続きで上天草市姫戸町にある矢岳巨石群をご紹介します。

 

矢岳周辺の巨石群は姫戸町(当時)が平成6年から進めていた白嶽森林公園計画の環境調査の中で公になりました。調査請負業者から連絡を受けた民間の熊本先史岩石文化研究会(当時)の調査では古代遺跡であるとの見解が示されましたが、同じく現地を調査した県文化課はドルメン状石組み内部に埋葬跡や副葬品がなかったことなどから考古学上の歴史的価値は認めず、盃状穴やストーンサークルについても空想の域を出ていないと古代遺跡説には否定的見解を示しました。

画像1.長さ13m、幅6m、厚さ1.5mあるというドルメン風の巨石です。

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結果的には観光資源として活用したい町の意向で、ここにある巨石群は古代遺跡として紹介されています。現地案内板の中身は学術的な裏付けは全くありませんが、この地域はその昔、シュメール系海洋渡来民の活動の場だったというようなことがいろいろと書かれています。

画像2.ドルメン南側からの一枚

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画像3.は巨石石組みの内部ですが、いくつかの石の上に斜めに横たわる巨石の下には意外に広い空間があります。奥の石壁には浅い円形の窪みがあってその前には平らな石があり、なにやら祭壇のようにも見えます。

画像3.ドルメン内部

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この一帯は標高300m以上あるのですが、巨石には海の節足動物が付着しています。この巨石群が地質学的な長い年数を経て海中から隆起、侵食されたものだとすれば、海洋生物が立体的な形を保って潰れずに残っているのは実に不思議な感じがします。

                                                                                                                                           

この巨石の周辺には他にも様々な形の石があり、いろいろと想像しながら散策するのも楽しいです。お隣はキャンプ施設が整備されていますので泊りがけの星の観察にも最適な場所です。

 

画像4.不知火海

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巨石群からは不知火海が望めます。この海域はその昔“伊勢の海”と呼ばれていたそうです。石に座ってボンヤリするのもいいです。草原とはまた違ったいい気分です。








 

2016年12月31日 (土)

上色見熊野座神社(高森町)

冬の太陽は自然の造形に深い陰影を作り、より神秘的な風景を演出してくれます。阿蘇南郷谷の高森町にある上色見熊野座神社の岩穴もその一つです。



画像1.県道に面した鳥居をくぐると目の前に整然と石灯籠が並ぶ参道が現れます。

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木々に囲まれて百基余りの石灯籠が建ち並ぶ300mの参道はなかなかの趣があります。途中でくの字に曲がっているので奥の社殿が見えず、より距離感が増します。緩やかな坂道ですが運動不足の身にはつらいです。

画像2.見えてきた拝殿。

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この神社の成立は鎌倉時代末から室町時代初期と考えられていますが、この地区からは45世紀頃のいくつもの古墳が見つかっていて、そのはるか以前からこの周辺には人々の暮らしがありました。

伊邪那岐命、伊邪那美命を祀る神社本殿の後ろからさらに60m(水平距離)ほど上ると“穿戸磐(ほげといわ)”という大きな穴が開いた奇岩があります。

 

画像3.神社本殿と背後に見える岩穴

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岩穴は伝説では、阿蘇大明神健磐龍命の従者であった鬼八法師が主の怒りをかって逃げる際に蹴り破ってできた穴と言われています。大昔の先住者と侵入者(天孫族)の間に起こった出来事が反映されているのでしょう。鬼八伝説は阿蘇郡内各地にあって支配者に従順でない者として扱われています。


画像4.岩穴から光が溢れ流れ出ているようです。南から少し西寄りに開いた岩穴を抜けるとその先は急峻な崖になっています。

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神社祭祀が始まるずっと前から、この岩穴がこの地に住む人達にとって特別なものであり、自然物崇拝の対象となっていたであろうことは想像に難くありません。


画像5.岩穴を抜ける陽光

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この近くから出土した古墳時代の石棺を開けたときの地区の世話役さんの記事があります。

その石棺内部には水が溜まっており、残りし髪の毛が、やがて消えてゆきました。頭骨をかくすかの水溜りは、真っ赤なベンガラを背に、青みがかった澄んだ透明色でした。共に亡くなったのか、それとも追葬されたのか寄り添った子供。傍らに刀剣がありました。…


この地に確かにあった人々の営み。岩穴の中に立っていると、一瞬吹き抜けた風の中に誰かの声が聞こえたような気がしました。








2016年12月18日 (日)

続々・ 雨宮神社

昨年は無計画に訪れたため、冬至頃の太陽光が雨宮神社にある巨石の空洞に差し込むのを見ることが出来ませんでした。今回はそのとき現地を測量した結果をもとにきちんと計画を立てました。光の射し込みを観察可能な予測時間帯は午前955分から1045分までです。果たして見ることができますやら。

画像1.雨宮神社のおなじみの遠景です。

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1221日の冬至とその前後の天気予報は曇りでしたので、少し早いのですが快晴の17日に出かけました。観察開始予定時刻の10時頃の人吉地方の太陽高度は26度で、これは冬至の日より0.3度高いのですが、肉眼での観察ですのでこの程度の差は無視できます。

 
画像2.巨石を南側より見たところ。やはり樹木の影の影響は大きいようです。

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太陽光が入る空洞自体が少し右に曲がっているため、どの部分を中心線にするかで何時を射し込み時間とするか違ってきます。開口部分への光の当たり方より、光の射し込み長さが最大になった時刻を採ります。

 

画像3.精度は低いですが、光の射す方向の目安にピンポールを立てます。

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画像4は955分頃の様子です。巨石内部まで光が入っていますが、右手の石の影がまだ出ていて、太陽光が入り始めたところです。

画像4.太陽光の入り始めです。樹木や手摺の影はしかたありません。

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画像5は4から30分後の10時25分頃です。太陽は高度を上げてきているのですが、巨石の通路のより奥を照らし始めました。

画像5.木の幹の影がくっきり。太陽の高さは28.7度ほど。

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巨石の通路の上には画像6のような石が逆三角形に飛び出ています。昔のSFアニメ“ガッチャマン”に出てくるアシュラ男爵の顔を思い出してしまうのですが、石に垂線を引いたような影は光が通路の奥に届くピークを知る目安になるかもしれません。撮影時刻は1035分、太陽高度は29.7度です。

画像6.巨石の通路上部の様子。崩れた石がうまくかみあっています。


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画像7.通路側から太陽を見上げたもの。1038分頃です。太陽の高さは約30度。


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画像8は1041分頃、入口側から通路を見た様子です。いろんな影が入り混じって判りにくいのですが、奥の方に光が当たっています。開口部角からその光の端までの長さは3.8mです。影の影響が不明ですので、正確には判らないのですが、最低でも約4mは照らしたことになり、予想太陽高度と開口部の高さから計算した長さにほぼ合いました。このときの太陽高度は30.2度で、この日の南中高度は34.4度(12:13)。因みに12月21日冬至の南中高度は34.3度(12:15)です。

画像8.1040分頃が光の射し込みのピークと思われます。樹木や石、人の影(私)で光が帯状に地面を照らすのは難しいです。

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冬至の光が空洞(羨道)に差し込むといえばアイルランドのニューグレンジが有名です。ここには複数の人が葬られているということですが、冬至を境に蘇る太陽の力を受けて復活しようとする古代人の願いでしょうか。入口には幾つもの渦巻きが彫られた巨石もあってなかなか立派なお墓です。冬至の朝の太陽光は17mも入るとのこと。雨宮神社は今日の観察では約4mでした。こちらは自然の産物で、お墓でもなさそうなので仕方ありませんね。

神社の伝承ではこの空洞をくぐると子宝に恵まれるそうで、アジア各地にあるという太陽の光を受けて妊娠する日光感精神話の元になるような風習が古くこの地域にもあったかも知れません。冬至の太陽が象徴する死と誕生、生命の輪廻…古代人の太陽に寄せる想いをちょっとだけ実感しました。









2016年11月12日 (土)

北緯33度(6) 猿田彦大神-3

山鹿市の南、菊池川沿いにある方保田八幡宮は33°0000.00″線上にあります。といっても大昔に現用の世界測地系があったはずはないのですが、このピッタリ感には引きつけられます。地図では方保田八幡宮ですが神額にはただ“八幡宮”とあります。鳥居をくぐって石段を登りきると33°線です。小高い境内から振り返って南を見ると菊池川そして田園地帯が広がっています。

画像1.

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境内西側にはお約束の猿田彦大神が2基。

画像2.

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東側には猿田彦大神1基と天満宮が並んでいます。

画像3.

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本殿正面には五七桐紋があります。この地域の神社ではしばしば見られる神紋ですが、これは九州王朝に関係するものと聞きます。

画像4.

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この神社の東側、菊池川とその支流方保田川に囲まれた台地からは約19001700年前(弥生後期~古墳時代前期)頃の方保田東原遺跡と呼ばれる大規模集落跡が見つかっています。発掘調査は3040haはあると推測されている遺跡の範囲のほんの一部しか行われていませんが、不思議な形をした巴形銅器や、石包丁形鉄器、その他数多くの鉄製品が出土しています。現在遺跡は全て埋め戻されていて、往時の姿は出土品を見ながら想像するしかありません。

画像5.

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今のところ、古代の天体観測所の跡は神社になっているのではないかと理由もなく思っているのですが、そういった大事な施設が集落から離れているはずもないので、大勢の人が日々生活していた集落の範囲内にあったと考えれば、この33度線上に広がる方保田東原遺跡は弥生後期から古墳時代と、天体観測技術が大きく進歩していたと思われる時代のものでもあり有力な候補地です。

当時の集落人口が10001500人はあったと言われるこの方保田東原遺跡と方保田八幡宮はたいへん近いのですが、聞くところでは八幡宮がある地域から出土する遺物からは方保田東原遺跡とはまた違った集団がいたように考えられるらしいです。小さな川ひとつ隔てて違う部族が共存していたということになります。

今の地図には方保田東原遺跡東側に“日置”という古代の測量技術者集団を思わせる地名が、そして方保田八幡宮の西側には“日の出”という地名が見られます。その昔、空を観察していた人達がそれぞれにいた名残でしょうか。



画像6は前々ブログ記事にあります赤米の植付~収穫までの期間のさそり座アンタレスの位置変化を、方保田八幡宮から観察したものです。観測場所が違っても周りの風景が変わるだけで星の見え方が変わるわけではないのですが小さなこだわりです。

星図には紀元1年頃の428日から95日まで、5日毎に20時に観測した2等星以上の光跡を表示しています。稲作の期間に合う明るい星は少なく、アンタレス以外を目標にする場合でもさそり座・いて座周辺の星を選ぶ必要があったことがわかります。画像下部のごちゃごちゃした光跡は今は見えなくなった南十字星です。

画像6.

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画像7は方保田東原遺跡出土のジョッキ形土器です。中央にある白い大きめの円筒形の器は殆ど現代のビールジョッキ形をしています。この形状のものは九州地方では特に珍しいものではないのですが、このちょっと西洋風な器で酒(?)を飲んでいる古代人を想像すると楽しくなります。

画像7.

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33度線、神社、猿田彦、神紋、地名、稲作、鉄器等々のパーツが幕内弁当のようにギユッと詰まったこの一帯は、天体観測だけでなく様々な技術を携えて遠路遥々やって来た人達が活躍していた姿を想像させます。



画像8.

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2016年10月11日 (火)

北緯33度(5) 猿田彦大神-2

山鹿市市街地の西の端、小高い丘の上に志々岐阿蘇神社があります。境内には主祭神健磐龍命を祭る本殿のほか、諏訪神社、八坂神社等々が並んでいます。


画像1.志々岐阿蘇神社境内

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このように同じ境内にある程度の大きさの社殿がいくつもあると、時代の流れで主祭神が入れ替わったこともあるでしょうから、こちらで一番古い神様は何方様だったでしょうかと考えてしまいます。ここではさらに悩ましいことに、境内奥のいわば一番尊い方がおられそうな場所に、3基の猿田彦石に守られるように“大国主大神”が鎮座されていました。屋外で雨ざらしとはいえ、立派な社殿におさまる神々に神格が劣るものではないと感じさせるものがあり、大国主=猿田彦説なども頭に浮かびます。

 

画像2.猿田彦石の先に大国主大神碑

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この神社から東へ2kmにある大宮神社の猿田彦石50基には及びませんが、この志々岐阿蘇神社にも22基の猿田彦石があります。大宮神社もそうですが、江戸時代の庚申信仰は大きな理由でしょうけれど、神名の上に刻まれた太陽(星?)・月と、丸(星?)、丸に一、二重丸という意匠の違い、“大神”、“太神”の表記、また石の形などには、猿田彦への意識の違いがあるように思えます。

 

画像3.志々岐阿蘇神社境内に建ち並ぶ猿田彦大神の一部

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さて志々岐阿蘇神社と大宮神社には猿田彦石がとても多いという共通点がありますが、もうひとつ、北緯3300分に並んでいるということがあります。またどちらも標高50m程にあって、これは古代菊池・山鹿にあった縄文湖“茂賀ノ浦”の湖面の高さに当たります。茂賀ノ浦の水が徐々に引いていくに従って、湖であった地域には幾つかのクニが形成されていきました。稲作技術を持って入植してきた渡来人達は天体観測技術にも長けていたと考えられます。農耕開拓技術者(大国主?)であったと思われる猿田彦は同時に優れた天体観測者でもあった、それで日本書紀ではその容姿を神々を導く星になぞらえたということはないでしょうか。

画像4.菊池・山鹿市街地を貫く北緯33度線

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画像5は志々岐阿蘇神社から観測したアナレンマです。アナレンマは毎回同じ場所から時刻を決めて1年間太陽の位置を観測したものです。図では1時間毎の位置を描いています。ブログ記事“北緯33(1)”でご紹介しましたように『古代の時刻制度』には、延喜式にある日出・日入時刻は北緯33度での観測に合う、但し冬至の日入・夏至の日出は北緯35度に合うとありますので、平安京(京都)の御所から観測したアナレンマも重ねて描きました。こちらは全体を見易くするため2時間毎の位置を描いています。

画像5.志々岐阿蘇神社(1時間毎)と平安京(京都)御所(2時間毎)から観測したアナレンマ

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こうして描いてみると1年間に太陽が天空を移動する範囲は結構広いものです。図では神社と御所との観測地緯度の差2度の違いをアナレンマのずれに見ることができます。僅かな差にも見えますが、太陽の視直径は053度ですから、その4倍ほどになります。日出・日入時刻をかなり正確に算出していた当時の天体観測者達はこの違いが地方時で2地点間の時刻にどれくらいのずれを生じさせるかよくわかっていたはずです。


画像6は志々岐阿蘇神社から見上げた西暦1年の冬至頃の星空です。人が肉眼で観察可能な星は6等星までくらいで約4000個程と言われます。歳差によって恒星の位置は現在とは変わっていますが、目立った違いは今の北極星ポラリスが北極点からかなり離れていることです。

画像6.西暦1年の冬至の頃、20時頃に志々岐阿蘇神社から見上げた星空

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真鍋大覚の『儺の国の星』には“大月氏華厳の釈教の世であった仏像渡来のAD552年から大仏開眼法要のAD752年の200年間頃の語り継ぎと思われるが、星の進みは70年に1日の割りで季節の先に出るという説法があったと聞く”とあります。これは地球の歳差運動のことを言っているもので、説法ですから詳細な数字を並べ聞かせることはなかったと思われますが、地球の歳差についても当時既にかなり正確な観測成果が日本にあったものと思われます。

物的証拠はまだ何もありませんが、延喜式にある日出・日入時刻は優れた観測者によって北緯33度線付近のどこかで観測された成果に基づいて計算されたもので、その痕跡は今もどこかに残されていると思うのです。この志々岐阿蘇神社とその周辺も候補地のひとつにあげておきたい場所です。

 

 

 

 

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