2017年9月30日 (土)

鶴木山神社(芦北町)

芦北町計石の美しい海岸線を見下ろす小高い山の上に鶴木山神社があります。この神社は第二次世界大戦の直前に現在の場所に遷座されました。境内の奉遷記念碑には次のように刻まれています。

鶴木山神社ハ元茂久迫ニ鎮座ス 奉齋ノ年月不明ナレドモ想フ二数百年前ナラム傅ヘ伝フ 此里開初ヨリ沖ニ不祥事無シト神徳顕現比ノ如シ 時恰皇國未曽有ノ時局ニ直面シ 御山ノ物資ヲ戴キ奉ラムト 町長篠原惟正鐘淵紡績會社ト圖リ 氏子亦之ニ賛同シ 神許ヲ請ヒ奉リテ 風光絶佳ナル此美岡ニ奉遷ス 夫レ氏子代々愈々益々崇敬祭祀怠ラズ比里ノ繁榮ヲ祈リ奉ル可キ者也矣

昭和十六年十月六日    社掌 草部宗尋 謹誌


(1) 奉遷記念碑

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元の鶴木山神社は今の神社から南東へ500m行った“鶴木山”にありました。それが記念碑にあるような事情で移されたわけです。碑文には物資が何か、それをどうしたのかについては何も書かれていません。鶴木山の現在の所有者は知りませんが一時期は石材を採る会社の所有であったらしく、実際に海側が大きく削られています。しかし、企業の採掘場にしては採り方が中途半端です。地元の方は何かご存知かと訪れたときに尋ねましたが戦前の話でもあり、遷座の経緯などは聞けませんでした。

(2) 鶴木山と現在の神社
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この鶴木山は高さ100mほどの小山ながら国土地理院の20万分の1の地勢図にも記載されています。昔から名の知られた山だったのでしょう。昭和10年頃の発刊と思われる『高天原』という小冊子には次のように紹介されています。

劒山と、三つ島、女島神宮
熊本市の南方、九州本線佐敷駅より徒歩一里足らずにして劒山(鶴來山)に至る、見るところ、何の風情もなき一漁村なるも、太古此處こそ、龍宮の本城なり、古事記に見る彦火々出見尊龍宮に至りてとあるは此の劒山の龍宮也、此の村落を囲む右手の山中に彦火々出見尊の御山稜あり、村民此れを氏神と稱し崇敬の的となし、此の墓に手を觸るゝものあらば村民こぞって死守す・・・



(3) 『高天原』


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著者はどこからこのような情報を得たのでしょうか。ツルギ山といえば、四国の剣山には古代イスラエルの王、ソロモンの秘宝が埋められているという伝説があるようですが、こちらの鶴木山はどうでしょうか。地理的な条件からみれば芦北沿岸地域は近東や南方アジアからの海洋渡来民の存在を考えてもよい場所です。

(4) 遷座した鶴木山神社から見た鶴木山

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もう一つ興味深いことは、ここから30Kmほど内陸に入ると、熊襲の地と見られている人吉市がありますが、その南側に高塚山(620m)というテレビの送信塔が建ち並んだ山があります。ここは昔から信仰の対象となっていた山です。山頂の巨石の上には小さな祠が置かれています。その周りには願い事を書いた丸い石がたくさん奉納されていて、芦北沿岸からも海岸の石を納めに来ていると聞きましたが、実際に“奉納 鶴木山 ○○○(人名)”と彫られた石の花立もありました。何のつながりがあってのことでしょうか。


(5) 鶴木山と高塚山の位置


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渡来人として考えられる集団に、古代中国の三国時代に登場する呉の国(西暦222~280年)から、西晋との決戦を目前にして日本に逃れてきた数万ともいわれる兵士たちがいるという説があります。芦北町の北隣の八代市には河童渡来伝説がありますが、これはこのときの呉人のことだといわれます。そして彼らは内陸へと入植していって、やがて熊襲と呼ばれる集団の中の一つの部族になっていったとされます。


(6) 高塚山山頂の巨石の上にある祠。周りには丸石が奉納されています。


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このように考える理由のひとつに、人吉市の東にあるあさぎり町の才園古墳(5世紀頃の円墳)から出土した鎏金神獣鏡(金メッキされた鏡)があります。この鏡は中国浙江省文物考古研究所により後漢後半(2世紀頃)から三国時代(3世紀半ば)にかけて、中国の会稽(現在の浙江省紹興)付近で鋳造されたものと鑑定されています。また三国時代の歴史書『呉志』には、種子島から来たらしい倭人が会稽で布を売買するという話が記されていて、熊襲が支配する南九州と中国南部との間で交易も行われていたと考えられます。


実際のところは今後の発掘の成果に期待するしかありませんが、はてさて気になるのはあの奉遷記念碑にある“御山ノ物資”とは何だったのだろうということです。


(7) “三種の神器島”とも呼ばれていたという鶴木山沖の不知火海(伊勢の海)に浮かぶ三つの小島。その先天草島を過ぎれば東シナ海。


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地中海のような雰囲気の不知火海はかつて“伊勢の海”と呼ばれていたそうです。その昔、この地で日本神話に残る出来事があったかもしれません。







2017年8月27日 (日)

装飾古墳(石貫)

全国に660基あるとされる装飾古墳の3割は熊本県にあり、そのほとんどが菊池市-山鹿市-玉名市を流れる菊池川流域にあります。横穴古墳のように保護対策がなされていないものでも1400年以上も前の赤や白の装飾が未だ鮮やかに残っているのは驚きです。星ではないかと思われる円文や、舟形の屍床は被葬者が海の民だったことを想像させます。また、今見られるような横穴式の古墳のつくりは二次的利用で、古墳時代以前に洗骨の風習がある先住の海洋渡来人が最初に今の横穴群を掘ったと考える研究者もいます。

 

■画像1.石貫穴観音横穴の案内板。

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今回は、数ある菊池川流域の横穴墳のひとつ 石貫穴観音横穴を見学しました。観音の名称は2号墓の奥に彫られている、作風から平安時代頃と推定される千手観音像によります。古墳の案内板にある1号墓の飾縁にはがいくつもあり、その中の三つが大きめに描かれているのですが、それはオリオンの三ツ星であるように見えました。この図を描いた人はそんな意識はなかったかも知れませんし、実際古墳に描かれている丸が案内板のように見える(?)わけではありません。そこでこの古墳からオリオンはどう見えたのか調べてみました。

 

■画像2.三つ並んだ横穴。左から1号墓~3号墓です。

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■画像3.1号墓の羨門の飾縁にはたくさんの赤・白の円文が描かれています。

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■画像4.横穴内部には入口左右と奥に一つの屍床があります。

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古墳は6世紀頃のものということなので、西暦550年頃の星図を描いてみました。古墳の西には“丸山”という山があります(方位266.2度)。この山の左手にオリオンの三ツ星が沈んでいくことがわかりました。このような星景色が見られる場所は他にもあります。それは熊本市最古とされる健軍神社で、その参道の先43Kmにある普賢岳(方位266.5度)の左にオリオンの三ツ星が沈みます。神社創建は西暦558年といいますから石貫穴観音横穴古墳と同じ年代です。

 

■画像5.横穴墳から見たオリオン三ツ星の入りの星景色。

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健軍神社の祭神筆頭にある健軍大神とは火国造ともされる健緒組のことで、肥後国風土記逸文によれば土蜘蛛の討伐報告を受けた崇神天皇が健緒組に海の民であるにも関わらずよく山の賊を討ったと言って功績を称えたといいます。健緒組は海洋渡来人だと言っているのです。石貫穴観音横穴古墳に葬られた人物と健緒組は同じ星の見方をする同じ氏族だったと思っています。

 

■画像6.横穴の西に“丸山”があります。方位は熊本市の最古社健軍神社から見る雲仙普賢岳と同じです。

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ところでもう一つ気になるのが、いつからあるのか知りませんが丸山という山名です。真鍋大覚は『儺の国の星(夜渡星)』の中でこう記しています。「・・・この時御船を迎え奉った伊覩の県主の船は伊蘇羅丸でありました。日本の船名に丸をつける最初の伝承がこれであります。まるとはMaru即ち星であります。船の総称にからもありましたが、Khalaもまた星の別名でありました。星をたゞ一つの頼みとして万里の波濤を夜通しわたる船人の祈りの心がこゝにありました。」

 

今でも家紋のは星紋と呼ばれています。丸山は星山と読み替えてもよいのかもしれません。各地にあるその山は星を重ね見る風景として、あるいは星を観察する場所として使われていたのではないかと想像します。星を頼りに海を渡った人々は陸に定住するようになっても様々な生活の場面で星と関り続けていた、その想いが装飾古墳の紋様に残されているのだろうと思います。

 

画像7.石貫穴観音横穴の南東400mにある“石貫ナギノ横穴群”。羨門の飾縁に円文・同心円文・三角文が描かれています。

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画像8.こちらは石貫ナギノ横穴群”の墓室内部のようす。屍床の横には太刀のレリーフが飾られています。

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2017年7月30日 (日)

竜王山古墳(山鹿市)

昔、具体的には西暦1年頃から800年頃にかけて、当時の人々は古墳や道、神社などの重要な施設をある星の方向を基準にして造っていたのではないか、そんな想いから今も残る風景に古代の星を重ねて、古代人が見ていた星景色を探してみようというグループがあります。私もその中で星の組合せの様々な事例を探していますが、今回は熊本県山鹿市にある古墳をご紹介します。


画像1.竜王山~彦岳の地形図(国土地理院 電子国土Web)

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山鹿市に日輪寺という、西暦940(平安時代)に国司藤原隆房によって天台宗の寺として開山され、 1316(鎌倉時代)に菊池氏の手によって曹洞宗の寺として再興されたお寺があります。このお寺は熊本の歴代の領主から手厚く庇護されてきた名刹です。忠臣蔵で知られる赤穂義士のうち細川藩へお預けとなった大石内蔵助良雄ほか十七士の遺髪を納めた遺髪塔がこの境内にあります。


画像2.山門から入ったところにある遺髪塔。


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日輪寺がある山の頂上から昭和44年、ツツジ園の造成工事中に古墳時代前期(4世紀後半)のものとされる竜王山古墳が発見されました。墳丘の径が25mの円墳とされますが、工事でほぼ破壊され中央部がわずかに残されているだけです。


画像3.山頂に僅かに残された古墳跡。

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画像4.古墳の案内板です。

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この
竜王山
の北側2.55kmに彦岳があります。竜王山古墳から彦岳山頂は北から約7度西へ寄って見えます。竜王山古墳が造られた年を推定年代の西暦400年頃としますと、彦岳山頂で北斗が水平に降りたとき(ミザールとメグレズの高度が同じ9.0度)その間にある星アリオト(方位172.9度)はほぼ彦山頂上にあります。このような風景がこの山頂が埋葬地として選ばれた理由にあると考えています。この北斗と山頂の位置関係を一つのパターンとすると、同様の星景色を他にも古墳や神社、古道などで見ることができます。



画像5.彦岳。

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画像6.西暦400年頃、彦岳に降りる北斗。

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北斗の星景色を探す時代にしている弥生時代後期から奈良時代にかけての大よそ800年の間に、北斗が水平に降りる位置は東から西へ約1.8度移動し、高さも4.1度低くなっています。古代人が北斗の位置変化をどれくらいの精度で見ることができたのか全く不明ですが、古墳や神社などの年代と北斗の方位には相関関係があるかもしれません。


画像7.
東側の空。北斗が降りる10分前には、王者の星ともいわれる昴がその文字の卯の方向真東にありました。

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実はこのような星景色は例えば北の一方向だけではなく、時代により変化する全天の星のある瞬間の位置を捉えていたと思われます。例えば昴やアルデバランが真東の空に並ぶ年代、ベガやアルタイルがある方向に来る時刻等々、星の組合せ方にはいくつかのパターンが考えられます。古代の星々と今ある風景や建造物との位置関係はただの偶然なのか、先ずは事例の収集です。


画像8.山頂北側には北斗・彦山を遥拝するように、“龍神”と書かれた石を収めた祠がありました。今現在は木が茂って北側の眺望はありません。

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画像9.竜王山の南には“菊池川流域二千年の米作り”として日本遺産に認定された田園が広がります。


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2017年6月26日 (月)

草部吉見神社

熊本県阿蘇郡高森町にある草部吉見神社には神武天皇の第一皇子とされる日子八井命(国龍神)が祭られています。ここはまた群馬県の一之宮貫前神社、宮崎県の鵜戸神宮とともに日本三大下り宮としても知られます。社殿がある場所はもとは池で、日子八井命は神武天皇東征の時、高千穂より五ヶ瀬川に沿ってこの地に来て池の大蛇を退治し、池を埋めて宮居を定め、その館は草を束ねて壁とされたことからこの地方を草部と呼ぶようになったと言われています。

 

画像1.下り宮の参道

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阿蘇地域でよく見られる猿田彦石はここにはありません。例大祭のお神輿の先導役としての猿田彦も登場せず、先導するのは日子八井命が草部に入った時、木本家の先祖が道案内したという神話伝承に基づいて今も木本家の方が白装束で先頭に立たれるとのことです。

 

画像2.社殿

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画像3.由緒書

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その際に、梅の枝で地を引きずるようにして歩くのですが、この所作が出雲佐太神社の「神等去出」の神事に似ていることから、草部が出雲との交流があったのではないかとも考えられています。例大祭が近づくと、アオハゼ(青萱で編んだ薦)が編まれ、お神輿が立寄る“浜床”というお旅所の壁材に使われます。有明海では今もこの薦を使った漁が残っていて、かつて草部一族が海洋民であったことの名残とも見られているようです。

 

画像4.塩井社へはさらに下って行きます。

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また一説によれば、草部吉見神は海幸彦のことであり、今の中国南部の雲南省麗江⇒海南島⇒天草の苓北町⇒熊本市東部の嘉島町⇒阿蘇と辿って来た渡来人で、先住の支配者であった高木大神の傘下に入り、高木大神一族の入婿となった、だから草部は伽耶部の意味であるといいます。

 

画像5.昔の小学校校歌碑

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草部吉見神社の周りには幾つかの神社があります。中でもスサノオを祭る“牛神社(うしがみしゃ)”は小さな社殿ながら立派な造りで近年まで信仰厚かったことがうかがえます。牛神という地名も残っていて伝承では日子八井命を出迎えた土地の神といわれながら草部吉見神社由緒書には何も語られていません。

 

画像6.小規模ながら立派な社殿

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そして日子八井命は神武東征の逆の道をたどって日向から草部に着いた健磐龍命を迎えたという伝承も、宮内庁にある異本阿蘇氏系図によれば、科野(長野県)の国造と阿蘇国造とは同根で、健磐龍命は“武五百建命”の別名とあり、その系図の説明では武五百建命は科野との関係が深く、“健磐龍命=武五百建命”は本当は草部(阿蘇)には来ていなかったことも考えられるようで阿蘇神話を根底から揺るがします。

 

真相はどうだったのでしょうか。草部吉見神社の東300mには“彦八井命御陵”(参考地)があります。玉垣の石柱には寄贈者として“八井”姓が記されていました。今も御子孫が県内にお住まいなのでしょう。

 

画像7.日子八井命御陵(参考地)

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画像8.神社の東に広がる棚田。古代より十分な食料生産能力があったことをうかがわせます。

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2017年5月27日 (土)

無田原遺跡

貴重な遺跡なのにあまり知られていないという所はたくさんあると思いますが、この熊本県菊池郡大津町矢護川片又にある“無田原遺跡”もそのひとつです。

画像1.西側から見た遺跡と鞍岳の風景。以前は隣に大きな養鶏施設があって見通せませんでしたが、昨年の熊本地震後に撤去されました。

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集石遺構といえば東北・北海道で九州にはないと言う人もいます。ところがこの無田原遺跡は縄文早期のものとされ日本で最も古く、しかも隣接して弥生時代前期の甕棺も出土しているというたいへん珍しい遺跡です。石がある辺りは周囲より少し高くなっていて土砂流出防止のためコンクリートで枠取されています。石の間も石が散逸しないようコンクリートで円形に固められており、この東西に並ぶ三つの円の並びがオリオンの三ツ星を連想させます。

画像2.東側から見た遺跡。ちょっと見オリオン三ツ星風ですが正確ではありません。

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画像3.なんとなくストーンサークル?

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長い年月ここには同族の人達が代々住み続けていたのでしょうか。集石遺構は墓か祭の跡と考えられているようですが、どちらにしても霊や神と人を結ぶ媒体として石を用いるという文化の始まりのように思えます。

画像4.県が設置した遺跡案内です。

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画像5.大津町が設置した案内板です。

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画像6.7000年前の南の星図。オリオン三ツ星が南中したときの高さは現在より約26度低い位置にありました。大きく迫って見えたと思います。

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2017年4月30日 (日)

千田聖母八幡宮

熊本県山鹿市鹿央町千田に“千田聖母八幡宮(ちだしょうもはちまんぐう)”という、創建が反正天皇三年(AD408年)とされる古い神社があります。この神社は大和朝廷以前に遡る九州王朝時代の痕跡を留める高格式の神社であると考える神社研究者もいます。

画像1 神社参道


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この神社は現在の山鹿・菊池にあった古代湖“茂賀浦”が弥生時代前期頃に陸化した辺りにあります。この茂賀浦の汀線は縄文時代の末期には標高45mライン位にあり、次第に湖は後退していって、弥生前期には標高37m付近(古閑地名が多い)、弥生中期には30m付近(島地名が多い)、そして弥生後期には茂賀浦は消滅したといわれます。この神社が創建されたという時代には北側に稲作に適した肥沃な大地が広がっていたことになります。

 

画像2 古代湖“茂賀浦”。かつては50mライン近くまで水で覆われていました。


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この神社の鳥居に掲げられた神額や案内板には千田(聖母)八幡宮・聖母宮・八幡聖母宮などとあって統一感がありません。楼門に辿りつくと扁額には“霊廟”とあります。霊廟といえば先祖の霊をお祭りするところで、通常は神をお祭りする神社とは分けられるものです。

 

画像3 “霊廟”と書かれた扁額。

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拝殿横の由緒書を見ると主祭神は神功皇后、相殿は應神天皇・仲哀天皇となっています。“聖母”とは神功皇后のことなのでしょうか。参拝を済ませ周りを見回すと拝殿にある御神紋は八幡宮によくある“三つ巴”の紋ではなく“五七の桐”です。これは高良玉垂命の紋で、神功皇后は “三五の桐”と聞いています。

 

画像4 由緒書


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本殿の大棟にも“五七の桐”があり、千木は男神を示す外削で、鰹木も奇数の三つになっています。近年は宮司さんでもこの千木の意味を軽んじることがあるようですがそれは誤りで、この神社の場合も元々の祭神は神功皇后ではなく、どの時代かで入れ替えがあったと先ず見るべきだと思うのです。

 

画像5 大棟の神紋・千木・鰹木は祭られているのが男神であることを示しています。


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では元はどなただったのか、私にわかるはずはないのですが、こういうときは格下扱いになっている祭神の中に本当の、格式の高い神がおられると神社研究者の間では考えられているようです。この神社の由緒書からいえば厳島之大神(瀛津嶋姫命)・住吉之大神(五七桐紋 高良玉垂命?)・武内神社(武内宿禰)というところでしょうか。

 

熊本県神社誌でこの神社を見ると祭神は“神功皇后外二神(七柱)”と一纏めになっているのに境内社はそれぞれに神名が記されています。末社の神々だけでも秘められたものがありそうで、祭神の詳細には意識的に触れていない感じを受けてしまいます。この神社の実の主は男神であり、神社研究者の説にあるように高良玉垂命ではなかろうかと思いました。因みに武内神社は武内宿禰、安部神社は安部助麿、若宮神社は仁徳天皇、諏訪神社は建御名方命、赤池天満宮は菅公等となっています。

 

画像6 境内社の諏訪神社と猿田彦大神石(2基)


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境内の末社、猿田彦大神へのご挨拶も済ませて境内の端にある古い手水舎まで来たとき、その水盤に目が留まりました。そこには“三つ柏紋”がありました。柏紋にある葉脈の数は定まっていませんがここにあるのは葉脈が六本の“メノラー(七支樹)”タイプです。奉納は慶應4年(AD1868年)で、武内何某と彫ってあります。あの武内宿禰ゆかりの方なのでしょうか。

 

画像7 あまり見かけない “三つ柏紋”


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神社研究者が言うように、ここには日本を代表する王朝が7世紀末まで九州にあったとする九州王朝説を考える上での重要なヒントが、祭られた神々とその祭られ方にあるように思われます。








2017年3月31日 (金)

浄水寺跡(御手洗水源)

熊本県宇城市豊野町に奈良時代から平安時代初期にかけてこの地域で大きな勢力を誇った浄水寺というお寺がありました。浄水寺は西暦828年に肥後国で国分寺に次ぐ寺格を有する寺院である“定額時”に定められた古代寺院です。しかしこの寺については残された資料が少なく調査研究してもその実態は謎に包まれており幻の寺院とも呼ばれているそうです。

画像1.浄水寺跡地入口。周辺より一段高くなっていますが、敷地としては広くありません。28年の熊本地震で浄水寺跡地の建物等は倒壊し、石碑も被害を受けました。右側の道路下が御手洗水源です。

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そんな中でほぼ唯一の資料が“浄水寺碑”と呼ばれている“南大門碑(790年)”、“燈籠碑(801年)、“寺領碑(826年)”、“如法経碑(1064年)”の4基の石碑です。現在日本で確認されている古代石碑は23基、現存するもの17基でそのうちの4基がこの寺跡に残されていて熊本県の非常に貴重な文化財となっています。これらの石碑群は平成2794日に“天保2年修理記念碑(1831年)”とともに国重要文化財に指定されました。


画像2.南大門碑(宇城市の
HPより転載)。

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画像3.左側より寺領碑、如法経碑、燈籠碑(宇城市のHPより転載)。元々これらの石碑はここにはなく、保全のために集められたものです。石碑の石笠も天保2年の修理の際に取り付けられました。燈籠碑の台座にはたくさんの盃状穴があります。

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そんな寺跡がある台地の下から湧き出ているのが浄水寺の池または御手洗水源(みたらいすいげん)と呼ばれている湧水池です。その池の縁には巨石が一つあり、昔々には池の中にあったように見えます。

画像4.御手洗水源全景。

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この巨石の表面にはいわゆる盃状穴があります。寺跡の燈籠碑の台座にもたくさんの盃状穴があるのですが、そちらとも関係するものなのか、また石碑と同年代なのかも判りません。湧水池の巨石にあるものは、大きなものは大人の拳ほどの、全体の配置はちょっとみると北斗のようなスバルのような穴の配置です。

画像5.水源池にある巨石。盃状穴と線刻があります。時代は不明です。

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よく見ると北斗よりはスバルに似ているように思います。穴の大きさは星の輝きの大きさに合っているようでもあります。その穴の一つには何か流れ出ているような線刻があります。


画像6.スバル(プレアデス星団 Wikipediaより転載)

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もしかするとこの寺が隆盛を極めていた時代、例えば西暦750年頃、この巨石の盃状穴と線刻の図柄は東西に伸びる天の川(=湧水池)に沿って天頂を中心に対称の位置にあったスバル(=地上の大王)と白鳥座の翼(=天下る磐船)を重ね合わせたものではないか、ここで星の祭祀が行われていたのではないかと想像しています。


画像7.西暦7501112050分頃の星空。白鳥座の翼部分は帆柱を立てた船を横から見ているようです。

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平安時代が始まり暫らくすると藤原氏によって星への信仰は遠ざけられていきます。浄水寺が廃寺となったのも、星信仰の衰亡と無縁ではなかったのかもしれません。









2017年2月27日 (月)

阿蘇谷の神社と星

鎌倉在住のKさんが書いておられる“鎌倉、まぼろしの風景”というホームページがあります。コンセプトは“イメージの翼に乗って「星月夜の鎌倉」を妄想するページ”ということで、古代の星の位置と地上の風景の関係を調べて、それをWebで公開されています。ホームページにはたくさんの記事が掲載されていますが、その中に228.阿蘇神社と鶴岡八幡宮”と題したものがあり、興味深い内容が紹介されていました。記事に登場する神社についての資料が少なかったので、その中の阿蘇谷西部にある神社を実際に訪れてみました。

Kさんの記事に登場する阿蘇谷西部にある神社の相互の位置関係は図1のようになります。相似形の二組の配置があり、阿蘇神社と湯浦八幡宮の東にスバルが昇ったとき、その西側にある彦星(アルタイル)と織姫星(ベガ)の下に神社がある、そのような神社と星の位置関係となるような空間設計がされているというのがKさんの見方です。

画像1.五つの神社の位置関係

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図1の南側から順に訪ねてみます。先ずは菅原神社(画像2)。祭神は当然ながら菅原道真公で、狭い境内の一角には石が祀られていました。とても大事にされているようすがうかがえます。天の石位が降りているといった雰囲気があります。ここは彦星の下です。

 

画像2.菅原神社

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次は阿蘇神社なのですが、よく知られていますし、先の地震でたいへんな被害を受けて復旧作業中ですので、今回は省かせていただきました。そして西小園八幡宮です。祭神を記したものはありません。八幡宮であれば比売大神ほか二神というところですが、地元では“お伊勢さん”と呼ばれるらしいのです。確かに拝殿奥には菊の御紋章がありました。

 

ASO田園空間博物館によれば、この神社の由緒は次の湯浦八幡宮と同じとされ、別名“女蜂神社”と呼ばれるそうです。またこの地域の耕地整理のため居場所がなくなった神社の神々もここで祭られているということでした。ここは阿蘇神社から見ると織姫星、湯浦八幡宮からみると彦星の方向にあたります。

 

画像3.西小園八幡宮

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次は湯浦八幡宮です。創建はAD985年で祭神は応神天皇。案内板には“今から約千年前に平将門公が朝廷に背いて天下の大乱となった時、数千とも知れぬ男蜂の大群がここから飛び立ち、将門軍を襲い大乱も平定されたといわれ、別名「男蜂神社」とも呼ばれている”とあります。ここから西湯浦八幡宮を見た方向に織姫星があります。

 

画像4.湯浦八幡宮

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最後に織姫星の下にあたる西湯浦八幡宮です。この神社はAD993年に宇佐神宮の御分霊を勧請したとのこと。旧暦の77日に祭典があり、通称“七夕さん”と呼ばれ、織姫と牽牛の伝説でも知られているそうです。主神は応神天皇・神功皇后・高木入売命とありますが、拝殿横の賽銭箱には“三社 八幡宮・足手荒神・大将軍”と書かれています。大将軍とは彦星のことです。

 

画像5.西湯浦八幡宮

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以上四社を駆け足で訪ねましたが、なるほどと思わせるものがありました。Kさんはこうした空間設計の時代としてAD700年頃を中心にした数百年間を想定されていて、その大きな理由は、その時代の北極点と、南中した一万四千年前の北極星織姫星が描く大きな円がその時代だけ歳差の円を夜空に表していたからだといいます。そして七夕祭とは大昔に織姫星が天の中心の北極星であったことを忘れないための祭であるとも。

 

星は天球上を絶えず移動し、その速度はけっこう速いものです。そんな星のある一瞬を捉え、地上の風景と特別な空間を作り出していた。星から遠くなった現代人にはイメージしにくいことかもしれませんが、古代のある星の位置が基になった道や建物配置というのは、身近なところに意外と残っているのではないかと思いました。

 

画像6.阿蘇神社から見たアルタイルとベガの光跡 (AD500年)


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画像7.湯浦八幡宮から見た天の川を挟んで向かい合うベガとアルタイル (AD700年)

天の磐船(白鳥座の翼)が天の川の中を降りてきます。

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2017年1月30日 (月)

矢岳の巨石

このブログは同名のHPからの引越しから始まりました。熊本県関係の過去記事の移動がまだ終わっていませんので、今回はその続きで上天草市姫戸町にある矢岳巨石群をご紹介します。

 

矢岳周辺の巨石群は姫戸町(当時)が平成6年から進めていた白嶽森林公園計画の環境調査の中で公になりました。調査請負業者から連絡を受けた民間の熊本先史岩石文化研究会(当時)の調査では古代遺跡であるとの見解が示されましたが、同じく現地を調査した県文化課はドルメン状石組み内部に埋葬跡や副葬品がなかったことなどから考古学上の歴史的価値は認めず、盃状穴やストーンサークルについても空想の域を出ていないと古代遺跡説には否定的見解を示しました。

画像1.長さ13m、幅6m、厚さ1.5mあるというドルメン風の巨石です。

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結果的には観光資源として活用したい町の意向で、ここにある巨石群は古代遺跡として紹介されています。現地案内板の中身は学術的な裏付けは全くありませんが、この地域はその昔、シュメール系海洋渡来民の活動の場だったというようなことがいろいろと書かれています。

画像2.ドルメン南側からの一枚

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画像3.は巨石石組みの内部ですが、いくつかの石の上に斜めに横たわる巨石の下には意外に広い空間があります。奥の石壁には浅い円形の窪みがあってその前には平らな石があり、なにやら祭壇のようにも見えます。

画像3.ドルメン内部

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この一帯は標高300m以上あるのですが、巨石には海の節足動物が付着しています。この巨石群が地質学的な長い年数を経て海中から隆起、侵食されたものだとすれば、海洋生物が立体的な形を保って潰れずに残っているのは実に不思議な感じがします。

                                                                                                                                           

この巨石の周辺には他にも様々な形の石があり、いろいろと想像しながら散策するのも楽しいです。お隣はキャンプ施設が整備されていますので泊りがけの星の観察にも最適な場所です。

 

画像4.不知火海

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巨石群からは不知火海が望めます。この海域はその昔“伊勢の海”と呼ばれていたそうです。石に座ってボンヤリするのもいいです。草原とはまた違ったいい気分です。








 

2016年12月31日 (土)

上色見熊野座神社(高森町)

冬の太陽は自然の造形に深い陰影を作り、より神秘的な風景を演出してくれます。阿蘇南郷谷の高森町にある上色見熊野座神社の岩穴もその一つです。



画像1.県道に面した鳥居をくぐると目の前に整然と石灯籠が並ぶ参道が現れます。

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木々に囲まれて百基余りの石灯籠が建ち並ぶ300mの参道はなかなかの趣があります。途中でくの字に曲がっているので奥の社殿が見えず、より距離感が増します。緩やかな坂道ですが運動不足の身にはつらいです。

画像2.見えてきた拝殿。

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この神社の成立は鎌倉時代末から室町時代初期と考えられていますが、この地区からは45世紀頃のいくつもの古墳が見つかっていて、そのはるか以前からこの周辺には人々の暮らしがありました。

伊邪那岐命、伊邪那美命を祀る神社本殿の後ろからさらに60m(水平距離)ほど上ると“穿戸磐(ほげといわ)”という大きな穴が開いた奇岩があります。

 

画像3.神社本殿と背後に見える岩穴

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岩穴は伝説では、阿蘇大明神健磐龍命の従者であった鬼八法師が主の怒りをかって逃げる際に蹴り破ってできた穴と言われています。大昔の先住者と侵入者(天孫族)の間に起こった出来事が反映されているのでしょう。鬼八伝説は阿蘇郡内各地にあって支配者に従順でない者として扱われています。


画像4.岩穴から光が溢れ流れ出ているようです。南から少し西寄りに開いた岩穴を抜けるとその先は急峻な崖になっています。

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神社祭祀が始まるずっと前から、この岩穴がこの地に住む人達にとって特別なものであり、自然物崇拝の対象となっていたであろうことは想像に難くありません。


画像5.岩穴を抜ける陽光

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この近くから出土した古墳時代の石棺を開けたときの地区の世話役さんの記事があります。

その石棺内部には水が溜まっており、残りし髪の毛が、やがて消えてゆきました。頭骨をかくすかの水溜りは、真っ赤なベンガラを背に、青みがかった澄んだ透明色でした。共に亡くなったのか、それとも追葬されたのか寄り添った子供。傍らに刀剣がありました。…


この地に確かにあった人々の営み。岩穴の中に立っていると、一瞬吹き抜けた風の中に誰かの声が聞こえたような気がしました。








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