2018年1月31日 (水)

神来貴船神社(菊池市)

熊本県菊池市にある地名“神来”は“おとど”と読みます。この小さな集落に神来貴船神社があります。由緒書によれば延久2(1070)菊池則隆公がこの地へ無事に着いたことへの報賽 のため京都から勧請したとされ、高龗神(タカオカミノカミ)という水をつかさどる神が祭られています。

画像1.鳥居から拝殿を見る。

Fb001

 

境内の一角には船着場の跡があり、現在は神社の西100mを流れている迫間川の川幅が嘗てはここまで及んでいたことがうかがえます。この船着場の案内板には、千数百年前に菊池川を遡って、第12代景行天皇の一行が上陸されたところと伝えられているとあります。ということは貴船神社が造られる前から既に特別な扱いをされていた場所だったわけです。

 

画像2.貴船神社境内の舟つなぎ場跡。

Fb004

 

高龗神の他に境内にはこの地域の神社には必ずと言っていいほどみられる猿田彦大神、そして照大神(伊勢大神宮)が祭られています。

 

画像3.猿田彦大神。どこでも雨ざらしですが存在感があります。

Fb003



画像4.天照大神。

Fb005

 

ところでこの神来地区には“昔、高貴な人が船で神来に来て住み着いた。”という伝説があるそうです。景行天皇も古いのですが、住み着いたとなると違う人物でしょう。この“高貴な人”に関しての資料の一つに“松野連系図”というものがあります。その系図から孝昭天皇3年(紀元前473年)に呉王の子“慶父忌”がこの地域に渡来したという説を唱える研究者もいます。

 

画像5.松野連系図(国立国会図書館所蔵)

Fb100121



画像6.貴船神社境内に置かれた古墳の石材(?)

Fb002

 

紀元前500年頃というのは日本に稲作が広まり始めた時代でもありました。この神来近くの台(うてな)台地から出た弥生土器についていた籾痕を鑑定した結果、揚子江流域が原産地であるジャポニカ種であることがわかりました。

 

縄文時代の終わり頃まで菊鹿盆地の標高45mライン位まではまだ“茂賀ノ浦”と呼ばれる湖で、弥生時代の終りの3世紀頃までには湖は標高30m辺りまで後退し、稲作に適した湿地が次第に拡大していったといわれています。画像7の標高地図にあるように、起源が古いとされる神社は標高50m辺りにあり、稲作が伝わった時期にそれに関わった人々の拠点となっていた場所ではないかと考えられ、神来貴船神社もそのライン上にあります。

 

画像7.菊鹿盆地標高地図。

180123

 

神来に舟でやって来た“高貴な人”とは誰だったのか。日本に新天地を求め稲を携えて海を渡り、有明海からまだ川の形も定まらなかった菊池川、迫間川を遡り、神来に辿り着いた渡来人がいたことは間違いないことでしょう。弥生時代初め頃の大陸情勢を思えば、この地域に最初に稲作をもたらしたその人たちは呉王の子孫だったという話にも頷けるものがあります。








2017年12月31日 (日)

押戸ノ石(阿蘇郡南小国町)

熊本県南小国町の南部、標高845mの丘陵地に“押戸ノ石(おしとのいし)”と呼ばれる巨石の一群があります。ここは近年パワースポット、スピリチュアルスポットとして有名になりました。確かにそんな雰囲気の風光明媚な場所です。


画像1.押戸ノ石巨石群全景 (Google earth)


Fbgoogleearthcopy171128


ここにある巨石群は今から25年ほど前に古代遺跡として紹介され、石に四千年前のシュメール文字があるとかケルト人が来ていたとか、普通の歴史家が聞いたら卒倒しそうな話が在野の研究者によって広められ本にもなりました。考古学的、民俗学的な裏付けのない思い入れだけでできあがった物語だったのですが、それは今も地元に引継がれ観光事業に一役買っています。所詮何があったかわからない大昔のことなので真実はさて置き、皆が楽しめればそれはそれで良いのだと思います。


画像2.押戸ノ石案内板


Fb


しかしこの場所に、いつの時代かの古代人がやって来ていたということは全くなかったのかといえば、そうでもないように思うのです。それはこの“押戸ノ石”という呼名と位置によります。ここは熊本県南小国町で阿蘇外輪山の中にあるので、現地で福岡方面との繋がりを意識する人は殆どいないと思うのですが、この押戸ノ石は福岡県の筑後川の流域南端にあります。


画像3.筑後川流域図

171130


筑紫地方に入植した渡来人が筑後川の源流を探して川筋を遡ったとしたら、最後に辿り着いたところは押戸ノ石があるこの地域だったはずです。真鍋大覚の『儺の国の星拾遺』(P201)に次のような話があります。

「八幡を若宮という。胡人を太身弓(身+弓で一文字、おおひと)と書いた由来があった。筑紫の方言で“わか”は“おおきかり”の略ととっていたからである。伊豆田方太仁、日向那珂飫肥、周防厚狭宇部などいずれも“うわひと”の倭訳で、舟人の古語であった。筋肉隆隆たる逞しき裸身の形容であった。神代紀に青人草なる語がみえる。“あをひと”とはまさに大身の胡人であり、あきらかに緑眼を意識した描写である。」

ここに書かれているような“おおひと”と形容される大柄な胡人(中国から見た北方や西域の諸民族・ソグド人)の一団が押戸ノ石に辿り着いていたかもしれません。その主な目的は鉱物資源の探査であっただろうと思います。他にも地元紙(熊日新聞)の記事“巨人伝説”によれば、県内には大人足(おおひとあし・おくとがし)、大人(おしと)、大人形(おひとがし)、大跡(おおあと)などの巨人にまつわると思われる地名が残っていて、実際、昭和十年代には不知火町の古墳から身長約2mの人骨が出たということです(現在骨は所在不明とのこと)。


画像4.押戸ノ石 東側の一群  奥にある尖った石が最も大きく、高さ5.5m、周囲15.3mといわれます。


Fb_2



画像5.押戸ノ石 西側の一群  三角形をしたファリックストーンの先端部分には石全体を男性器に見立てた線刻があります。風化によるものではないと思いますが、いつ頃からあるのかもわかりません。

Fb_3


源流まで辿り着いた彼らは周囲が見渡せる、ほどよい大きさの巨石が露出していたこの場所を祭場として選び、遠い故郷と同じ星空の元で何かの儀式を執り行ったかもしれません。

それを見ていた案内人あるいは先住者によって押戸ノ石、言い換えれば“おおひとの石”では“夜な夜な鬼が石でお手玉をして遊んだ”という伝説が残されたのではないかと思います。


画像6.本当に古代遺跡かはさておいても、人によって様々なイメージが膨らむ場所であることは間違いありません。


Fb_1



















2017年11月25日 (土)

幅・津留遺跡

熊本県道28号線バイパス工事の阿蘇郡南阿蘇村と高森町に跨る区間の事前調査で、弥生中期後半から後期後半にかけての遺跡が発掘されました(調査は既に完了しています)。遺跡の概要は当時の新聞切抜きをご覧いただくとして、この中の記事で特に注目したのは地面に突き立ててあるという“標柱石”でした。標柱石というからには巨石とはいわないまでも、せめて人の大きさくらいはあるのだろうと期待して説明会に出かけたのですが、それはまさに驚きのサイズでした。

 

画像1.地元紙(熊本日日新聞)の記事。

Habaturu011

 

この立柱石は新旧両方のムラから出土していて、その長辺が阿蘇山の根子岳を指しているということで、山岳祭祀に関係したものらしいことが言われています。山を見る位置に幅がありますし、山も幅広いので、どこか一点だけを見ていたということはなさそうに思えます。でも本当に見ていたのは山なのでしょうか。何か目標物を定めるときはやはり“点”だと思うのです。

 

画像2.これが“立柱石”。小さい!

Habaturu022

 

画像3.現地見学会の配布資料の立柱の説明部分。配布された資料と同じものが県の文化課のページにPDFで載せてありましたが再度検索したときは見つけ出せませんでした。

Habaturu033

 

画像4.立柱石に跨り石長辺の方向を両手で示す担当者と根子岳方位図の合せ図。


Habaturu044_2

 

この立柱石が指し示すという根子岳の上に星はどのように見えるか、弥生後期西暦200年頃の星図を見てみました。画像4.で発掘担当者が立柱を跨いで両手で指し示している方向には北斗が立ち上がって見えます。中でも明るい星アルカイド(ベネトナシュ)・アリオト・ドゥべの三星は同じ方角(経線上・N23度E)に整列します。この図は11月初旬の1時頃ですが、整列時には天の川が天頂にあります。冬の星座も南に集まり、賑やかな星の風景です。

画像5.立柱石の長辺が示す北北東方向の星空。 (例として西暦200年11月1日1時頃)

Habaturu055_2



画像6.同時刻の全天のようす。

Habaturu066_2

 

因みにこの時代はまだ水平の北斗も見えていて、アリオトの方位は353度。阿蘇山最高峰の高岳とは約1.5度のずれです。またここからは見えませんが阿蘇神社はほぼ真北に当たります。

 

この遺跡には立柱石の他にも根子岳方向を見ていたと思われる場所があります。画像7.は東のムラの遺構配置図です。この図の右端に17区という区域があります。画像8.はその拡大図です。

 

画像7.東のムラの配置図。道路建設に伴う調査のため掘削区域は細長くなります。遺跡は調査の後埋め戻され、この形の道路になります。(幅・津留遺跡現地見学会資料より転載)

Habaturu077


この図の右側にあるS178は他とは違って歪な台形をしています。その北側には丸い形をしたSX30がありますが、発掘担当者はここが祈祷を行うような場所ではなかったかと考えています。

 

画像8.配置図の17区の拡大図。(幅・津留遺跡現地見学会資料より転載)

Habaturu088

 

ここからは勾玉が2個見つかった以外に祭祀用具のようなものは出なかったのですが、竪穴中央からSX30を見た先には根子岳があり、意識的に山に向けられた配置に思われるということでした。

 

また、この一角の左側にSX32があります。この場所は焼けた土がかたまって発見されたため、土器を焼いたか、占いなどのために常に火を絶やさなかった場所ではないかと思われています。このようにこの区域がムラでも特別な場所であったと思われるのですが、祭祀場だったとすればその対象は根子岳だったのでしょうか。

 

根子岳の山容は周りの山々と比べ荒々しく確かに神聖な印象を与えますが、立柱石の示す先、祭祀施設に座った呪術者の視線の先にある景色は何の変哲もない山の東端です。そこに向かって祈るというのは考え難く、やはり小さな立柱石や祭祀場らしき跡が指し示していたのは根子岳そのものではなく山から昇る北斗で、死者を天に送る祭り、あるいは全ての農作業、収穫が終わったことを祝う祭り、そのような星の祭祀が北極点を中心に回転する北斗の動きに合わせて行われていたのではないかと想像しています。

 

画像9.こんな土器片も出ています。龍の線刻?(幅・津留遺跡現地見学会資料より転載)

Habaturu099


画像10.地元紙(熊本日日新聞)のもう一つの記事。


Habatauru010_2

 




2017年10月30日 (月)

チブサン古墳

山鹿市立博物館の近くにある熊本を代表する装飾古墳、チブサン古墳は全長45m(後円部径24m、前方部幅15.7m)の前方後円墳で、年代は6世紀頃とされます。今のような保護対策がとられる前は既に開口していて祠が置いてあったということです。開館日には午前10時と午後2時の2回石室内を見学できます(有料大人100円)。今見られる古墳の形は周りが削られていて、目立たない小さな石を地面に並べて元の形を示してあります。


画像1.古墳全景。右手の階段状に見えるのが石室の入口です。

Chibusan1



画像2.古墳の測量図

Chibusan3


名称の由来は石室内の装飾に乳房のように見えるものがあることから“ちぶさのこふん”、方言で“の→ん”になって、“ちぶさんこふん”といわれています。この円文は星か目玉にも見えます。丸に点の組合せは現代では太陽を表す記号になっていますがこれも特定の天体を表したものか、あるいは古代オリエントでは目玉紋様は魔除けでしたが同じような呪術的な意味がある印なのかもしれません。

画像3.石室の測量図

Chibusan4



画像4.石室の様子。撮影禁止なので案内書の画像を転載。 撮影OKでも中は薄暗くガラス越しなのできれいに撮るのは難しいです。

Chibusan2


東側の石板にある七つの円文は鏡か星といわれています。鏡が絵では権威が示されないので星だろうと思います。では何の星かといえば、星宿の図に描かれている昴に似ていて、これもそのように思います。他の装飾古墳にも見られる星と思われる円文もそうですが星の描き方は写実的ではなく、今の星座のように何かの形を模した見立てがないのは、一括りの星の群れは例えそれらを結んで見ていたとしても、その星の数しか認識しなかったためだと思います。


画像5.古墳傍の案内施設横にある石室のレプリカ(北・東側)。

Chibusan5


円文の下の人物は王でしょうか。海神の三叉矛のような突起の中央は先が平たくなっていて、朝鮮半島の慶州の古墳から出土した金冠によく似ています。この時代、この地域から朝鮮半島南東部を含む連合体があり交流があったことを思わせます。円文が農事暦の役割があったといわれる昴であったなら支配者層には重要な星だったはずで、描かれた人物が金冠を載せた王ならよい組合わせです。また人物の右横の図形は数字を示しているようにも見えます。根拠はありませんが例えば25とか。総じて見て東の石板の装飾は農業祭祀、星の祭祀の一場面ではないかと想像しています。


画像6.同じく石室のレプリカ(北・西側)

Chibusan006


北側の正面左にあったはずの石板はなくなっています。現場に割れた痕跡はなかったので持ち去られたのだろうということです。どんな図柄だったのでしょう。それだけを盗みたくなるほど魅力的なものだったのでしょうか。失われた石板に描かれていたのは大きな円文または船ではなかったかと思っています。

その他の図柄に三角や菱形があります。他の装飾古墳ではこれらがもっと密に描かれているところもあります。三角形は鱗紋とも呼ばれますが空間を埋めている何かを古代人はこのように見ていたのでしょうか、あるいは所々に印が付いた暦のようでもあります。6世紀頃の古墳だと、西暦522年6月10日にこの地方で皆既日食がありました。黒の色使いはそのときの記憶かもしれません。


画像7.案内板と埴輪、石人のレプリカ。石人は古墳のくびれの造出に立っていたそうです。高さ1.5mほど。実物はずっと上京中です。

Chibusan8


古墳の傍に作られた案内施設にある石室のレプリカもとてもよくできていて、少々古くなっていい感じになっています。でも訪れたときはできるだけ本物の石室を見学して、被葬者とその時代に思いを巡らしたいと思うのです。


画像8.西暦500年頃の8初旬の真夜中の星空。昴が真東にある星図です。北斗は北の稜線に横たわって見えます。この後、牡牛座、オリオン座が昇ってきます。

Chibusan6_2



画像9.西暦500年冬至の頃の真夜中、西の空に冬の大三角が聳えます。

Chibusan9



















2017年9月30日 (土)

鶴木山神社(芦北町)

芦北町計石の美しい海岸線を見下ろす小高い山の上に鶴木山神社があります。この神社は第二次世界大戦の直前に現在の場所に遷座されました。境内の奉遷記念碑には次のように刻まれています。

鶴木山神社ハ元茂久迫ニ鎮座ス 奉齋ノ年月不明ナレドモ想フ二数百年前ナラム傅ヘ伝フ 此里開初ヨリ沖ニ不祥事無シト神徳顕現比ノ如シ 時恰皇國未曽有ノ時局ニ直面シ 御山ノ物資ヲ戴キ奉ラムト 町長篠原惟正鐘淵紡績會社ト圖リ 氏子亦之ニ賛同シ 神許ヲ請ヒ奉リテ 風光絶佳ナル此美岡ニ奉遷ス 夫レ氏子代々愈々益々崇敬祭祀怠ラズ比里ノ繁榮ヲ祈リ奉ル可キ者也矣

昭和十六年十月六日    社掌 草部宗尋 謹誌


(1) 奉遷記念碑

1709296


元の鶴木山神社は今の神社から南東へ500m行った“鶴木山”にありました。それが記念碑にあるような事情で移されたわけです。碑文には物資が何か、それをどうしたのかについては何も書かれていません。鶴木山の現在の所有者は知りませんが一時期は石材を採る会社の所有であったらしく、実際に海側が大きく削られています。しかし、企業の採掘場にしては採り方が中途半端です。地元の方は何かご存知かと訪れたときに尋ねましたが戦前の話でもあり、遷座の経緯などは聞けませんでした。

(2) 鶴木山と現在の神社
170929


この鶴木山は高さ100mほどの小山ながら国土地理院の20万分の1の地勢図にも記載されています。昔から名の知られた山だったのでしょう。昭和10年頃の発刊と思われる『高天原』という小冊子には次のように紹介されています。

劒山と、三つ島、女島神宮
熊本市の南方、九州本線佐敷駅より徒歩一里足らずにして劒山(鶴來山)に至る、見るところ、何の風情もなき一漁村なるも、太古此處こそ、龍宮の本城なり、古事記に見る彦火々出見尊龍宮に至りてとあるは此の劒山の龍宮也、此の村落を囲む右手の山中に彦火々出見尊の御山稜あり、村民此れを氏神と稱し崇敬の的となし、此の墓に手を觸るゝものあらば村民こぞって死守す・・・



(3) 『高天原』


1709293

著者はどこからこのような情報を得たのでしょうか。ツルギ山といえば、四国の剣山には古代イスラエルの王、ソロモンの秘宝が埋められているという伝説があるようですが、こちらの鶴木山はどうでしょうか。地理的な条件からみれば芦北沿岸地域は近東や南方アジアからの海洋渡来民の存在を考えてもよい場所です。

(4) 遷座した鶴木山神社から見た鶴木山

1709295


もう一つ興味深いことは、ここから30Kmほど内陸に入ると、熊襲の地と見られている人吉市がありますが、その南側に高塚山(620m)というテレビの送信塔が建ち並んだ山があります。ここは昔から信仰の対象となっていた山です。山頂の巨石の上には小さな祠が置かれています。その周りには願い事を書いた丸い石がたくさん奉納されていて、芦北沿岸からも海岸の石を納めに来ていると聞きましたが、実際に“奉納 鶴木山 ○○○(人名)”と彫られた石の花立もありました。何のつながりがあってのことでしょうか。


(5) 鶴木山と高塚山の位置


170929_2


渡来人として考えられる集団に、古代中国の三国時代に登場する呉の国(西暦222~280年)から、西晋との決戦を目前にして日本に逃れてきた数万ともいわれる兵士たちがいるという説があります。芦北町の北隣の八代市には河童渡来伝説がありますが、これはこのときの呉人のことだといわれます。そして彼らは内陸へと入植していって、やがて熊襲と呼ばれる集団の中の一つの部族になっていったとされます。


(6) 高塚山山頂の巨石の上にある祠。周りには丸石が奉納されています。


1709292


このように考える理由のひとつに、人吉市の東にあるあさぎり町の才園古墳(5世紀頃の円墳)から出土した鎏金神獣鏡(金メッキされた鏡)があります。この鏡は中国浙江省文物考古研究所により後漢後半(2世紀頃)から三国時代(3世紀半ば)にかけて、中国の会稽(現在の浙江省紹興)付近で鋳造されたものと鑑定されています。また三国時代の歴史書『呉志』には、種子島から来たらしい倭人が会稽で布を売買するという話が記されていて、熊襲が支配する南九州と中国南部との間で交易も行われていたと考えられます。


実際のところは今後の発掘の成果に期待するしかありませんが、はてさて気になるのはあの奉遷記念碑にある“御山ノ物資”とは何だったのだろうということです。


(7) “三種の神器島”とも呼ばれていたという鶴木山沖の不知火海(伊勢の海)に浮かぶ三つの小島。その先天草島を過ぎれば東シナ海。


1709294


地中海のような雰囲気の不知火海はかつて“伊勢の海”と呼ばれていたそうです。その昔、この地で日本神話に残る出来事があったかもしれません。







2017年8月27日 (日)

装飾古墳(石貫)

全国に660基あるとされる装飾古墳の3割は熊本県にあり、そのほとんどが菊池市-山鹿市-玉名市を流れる菊池川流域にあります。横穴古墳のように保護対策がなされていないものでも1400年以上も前の赤や白の装飾が未だ鮮やかに残っているのは驚きです。星ではないかと思われる円文や、舟形の屍床は被葬者が海の民だったことを想像させます。また、今見られるような横穴式の古墳のつくりは二次的利用で、古墳時代以前に洗骨の風習がある先住の海洋渡来人が最初に今の横穴群を掘ったと考える研究者もいます。

 

■画像1.石貫穴観音横穴の案内板。

Kofun11

 

今回は、数ある菊池川流域の横穴墳のひとつ 石貫穴観音横穴を見学しました。観音の名称は2号墓の奥に彫られている、作風から平安時代頃と推定される千手観音像によります。古墳の案内板にある1号墓の飾縁にはがいくつもあり、その中の三つが大きめに描かれているのですが、それはオリオンの三ツ星であるように見えました。この図を描いた人はそんな意識はなかったかも知れませんし、実際古墳に描かれている丸が案内板のように見える(?)わけではありません。そこでこの古墳からオリオンはどう見えたのか調べてみました。

 

■画像2.三つ並んだ横穴。左から1号墓~3号墓です。

Kofun12



■画像3.1号墓の羨門の飾縁にはたくさんの赤・白の円文が描かれています。

Kofun13


■画像4.横穴内部には入口左右と奥に一つの屍床があります。

Kofun14jpg

 

古墳は6世紀頃のものということなので、西暦550年頃の星図を描いてみました。古墳の西には“丸山”という山があります(方位266.2度)。この山の左手にオリオンの三ツ星が沈んでいくことがわかりました。このような星景色が見られる場所は他にもあります。それは熊本市最古とされる健軍神社で、その参道の先43Kmにある普賢岳(方位266.5度)の左にオリオンの三ツ星が沈みます。神社創建は西暦558年といいますから石貫穴観音横穴古墳と同じ年代です。

 

■画像5.横穴墳から見たオリオン三ツ星の入りの星景色。

Kofun16jpg

 

健軍神社の祭神筆頭にある健軍大神とは火国造ともされる健緒組のことで、肥後国風土記逸文によれば土蜘蛛の討伐報告を受けた崇神天皇が健緒組に海の民であるにも関わらずよく山の賊を討ったと言って功績を称えたといいます。健緒組は海洋渡来人だと言っているのです。石貫穴観音横穴古墳に葬られた人物と健緒組は同じ星の見方をする同じ氏族だったと思っています。

 

■画像6.横穴の西に“丸山”があります。方位は熊本市の最古社健軍神社から見る雲仙普賢岳と同じです。

Kofun15jpg

 

ところでもう一つ気になるのが、いつからあるのか知りませんが丸山という山名です。真鍋大覚は『儺の国の星(夜渡星)』の中でこう記しています。「・・・この時御船を迎え奉った伊覩の県主の船は伊蘇羅丸でありました。日本の船名に丸をつける最初の伝承がこれであります。まるとはMaru即ち星であります。船の総称にからもありましたが、Khalaもまた星の別名でありました。星をたゞ一つの頼みとして万里の波濤を夜通しわたる船人の祈りの心がこゝにありました。」

 

今でも家紋のは星紋と呼ばれています。丸山は星山と読み替えてもよいのかもしれません。各地にあるその山は星を重ね見る風景として、あるいは星を観察する場所として使われていたのではないかと想像します。星を頼りに海を渡った人々は陸に定住するようになっても様々な生活の場面で星と関り続けていた、その想いが装飾古墳の紋様に残されているのだろうと思います。

 

画像7.石貫穴観音横穴の南東400mにある“石貫ナギノ横穴群”。羨門の飾縁に円文・同心円文・三角文が描かれています。

Kofun18jpg

 

画像8.こちらは石貫ナギノ横穴群”の墓室内部のようす。屍床の横には太刀のレリーフが飾られています。

Kofun17jpg











2017年7月30日 (日)

竜王山古墳(山鹿市)

昔、具体的には西暦1年頃から800年頃にかけて、当時の人々は古墳や道、神社などの重要な施設をある星の方向を基準にして造っていたのではないか、そんな想いから今も残る風景に古代の星を重ねて、古代人が見ていた星景色を探してみようというグループがあります。私もその中で星の組合せの様々な事例を探していますが、今回は熊本県山鹿市にある古墳をご紹介します。


画像1.竜王山~彦岳の地形図(国土地理院 電子国土Web)

Nitirin01


山鹿市に日輪寺という、西暦940(平安時代)に国司藤原隆房によって天台宗の寺として開山され、 1316(鎌倉時代)に菊池氏の手によって曹洞宗の寺として再興されたお寺があります。このお寺は熊本の歴代の領主から手厚く庇護されてきた名刹です。忠臣蔵で知られる赤穂義士のうち細川藩へお預けとなった大石内蔵助良雄ほか十七士の遺髪を納めた遺髪塔がこの境内にあります。


画像2.山門から入ったところにある遺髪塔。


Nitirin07_2

 

日輪寺がある山の頂上から昭和44年、ツツジ園の造成工事中に古墳時代前期(4世紀後半)のものとされる竜王山古墳が発見されました。墳丘の径が25mの円墳とされますが、工事でほぼ破壊され中央部がわずかに残されているだけです。


画像3.山頂に僅かに残された古墳跡。

Nitirin05



画像4.古墳の案内板です。

Nitirin04_2



この
竜王山
の北側2.55kmに彦岳があります。竜王山古墳から彦岳山頂は北から約7度西へ寄って見えます。竜王山古墳が造られた年を推定年代の西暦400年頃としますと、彦岳山頂で北斗が水平に降りたとき(ミザールとメグレズの高度が同じ9.0度)その間にある星アリオト(方位172.9度)はほぼ彦山頂上にあります。このような風景がこの山頂が埋葬地として選ばれた理由にあると考えています。この北斗と山頂の位置関係を一つのパターンとすると、同様の星景色を他にも古墳や神社、古道などで見ることができます。



画像5.彦岳。

Nitirin02



画像6.西暦400年頃、彦岳に降りる北斗。

Nitirin11


北斗の星景色を探す時代にしている弥生時代後期から奈良時代にかけての大よそ800年の間に、北斗が水平に降りる位置は東から西へ約1.8度移動し、高さも4.1度低くなっています。古代人が北斗の位置変化をどれくらいの精度で見ることができたのか全く不明ですが、古墳や神社などの年代と北斗の方位には相関関係があるかもしれません。


画像7.
東側の空。北斗が降りる10分前には、王者の星ともいわれる昴がその文字の卯の方向真東にありました。

Ad4001101_194700

 

実はこのような星景色は例えば北の一方向だけではなく、時代により変化する全天の星のある瞬間の位置を捉えていたと思われます。例えば昴やアルデバランが真東の空に並ぶ年代、ベガやアルタイルがある方向に来る時刻等々、星の組合せ方にはいくつかのパターンが考えられます。古代の星々と今ある風景や建造物との位置関係はただの偶然なのか、先ずは事例の収集です。


画像8.山頂北側には北斗・彦山を遥拝するように、“龍神”と書かれた石を収めた祠がありました。今現在は木が茂って北側の眺望はありません。

Nitirin06



画像9.竜王山の南には“菊池川流域二千年の米作り”として日本遺産に認定された田園が広がります。


Nitirin08_2







 

 

2017年6月26日 (月)

草部吉見神社

熊本県阿蘇郡高森町にある草部吉見神社には神武天皇の第一皇子とされる日子八井命(国龍神)が祭られています。ここはまた群馬県の一之宮貫前神社、宮崎県の鵜戸神宮とともに日本三大下り宮としても知られます。社殿がある場所はもとは池で、日子八井命は神武天皇東征の時、高千穂より五ヶ瀬川に沿ってこの地に来て池の大蛇を退治し、池を埋めて宮居を定め、その館は草を束ねて壁とされたことからこの地方を草部と呼ぶようになったと言われています。

 

画像1.下り宮の参道

Kusakabe01

 

阿蘇地域でよく見られる猿田彦石はここにはありません。例大祭のお神輿の先導役としての猿田彦も登場せず、先導するのは日子八井命が草部に入った時、木本家の先祖が道案内したという神話伝承に基づいて今も木本家の方が白装束で先頭に立たれるとのことです。

 

画像2.社殿

Kusakabe02

 

画像3.由緒書

Kusakabe03


 

その際に、梅の枝で地を引きずるようにして歩くのですが、この所作が出雲佐太神社の「神等去出」の神事に似ていることから、草部が出雲との交流があったのではないかとも考えられています。例大祭が近づくと、アオハゼ(青萱で編んだ薦)が編まれ、お神輿が立寄る“浜床”というお旅所の壁材に使われます。有明海では今もこの薦を使った漁が残っていて、かつて草部一族が海洋民であったことの名残とも見られているようです。

 

画像4.塩井社へはさらに下って行きます。

Kusakabe04

 

また一説によれば、草部吉見神は海幸彦のことであり、今の中国南部の雲南省麗江⇒海南島⇒天草の苓北町⇒熊本市東部の嘉島町⇒阿蘇と辿って来た渡来人で、先住の支配者であった高木大神の傘下に入り、高木大神一族の入婿となった、だから草部は伽耶部の意味であるといいます。

 

画像5.昔の小学校校歌碑

Kusakabe05


 

草部吉見神社の周りには幾つかの神社があります。中でもスサノオを祭る“牛神社(うしがみしゃ)”は小さな社殿ながら立派な造りで近年まで信仰厚かったことがうかがえます。牛神という地名も残っていて伝承では日子八井命を出迎えた土地の神といわれながら草部吉見神社由緒書には何も語られていません。

 

画像6.小規模ながら立派な社殿

Kusakabe08_2

 

そして日子八井命は神武東征の逆の道をたどって日向から草部に着いた健磐龍命を迎えたという伝承も、宮内庁にある異本阿蘇氏系図によれば、科野(長野県)の国造と阿蘇国造とは同根で、健磐龍命は“武五百建命”の別名とあり、その系図の説明では武五百建命は科野との関係が深く、“健磐龍命=武五百建命”は本当は草部(阿蘇)には来ていなかったことも考えられるようで阿蘇神話を根底から揺るがします。

 

真相はどうだったのでしょうか。草部吉見神社の東300mには“彦八井命御陵”(参考地)があります。玉垣の石柱には寄贈者として“八井”姓が記されていました。今も御子孫が県内にお住まいなのでしょう。

 

画像7.日子八井命御陵(参考地)

Kusakabe06

 

画像8.神社の東に広がる棚田。古代より十分な食料生産能力があったことをうかがわせます。

Kusakabe07

 

 



2017年5月27日 (土)

無田原遺跡

貴重な遺跡なのにあまり知られていないという所はたくさんあると思いますが、この熊本県菊池郡大津町矢護川片又にある“無田原遺跡”もそのひとつです。

画像1.西側から見た遺跡と鞍岳の風景。以前は隣に大きな養鶏施設があって見通せませんでしたが、昨年の熊本地震後に撤去されました。

Mutabaru01

 

集石遺構といえば東北・北海道で九州にはないと言う人もいます。ところがこの無田原遺跡は縄文早期のものとされ日本で最も古く、しかも隣接して弥生時代前期の甕棺も出土しているというたいへん珍しい遺跡です。石がある辺りは周囲より少し高くなっていて土砂流出防止のためコンクリートで枠取されています。石の間も石が散逸しないようコンクリートで円形に固められており、この東西に並ぶ三つの円の並びがオリオンの三ツ星を連想させます。

画像2.東側から見た遺跡。ちょっと見オリオン三ツ星風ですが正確ではありません。

Mutabaru02



画像3.なんとなくストーンサークル?

Mutabaru03

 

長い年月ここには同族の人達が代々住み続けていたのでしょうか。集石遺構は墓か祭の跡と考えられているようですが、どちらにしても霊や神と人を結ぶ媒体として石を用いるという文化の始まりのように思えます。

画像4.県が設置した遺跡案内です。

Mutabaru04

 

画像5.大津町が設置した案内板です。

Mutabaru05

 

画像6.7000年前の南の星図。オリオン三ツ星が南中したときの高さは現在より約26度低い位置にありました。大きく迫って見えたと思います。

Mutabaru06










2017年4月30日 (日)

千田聖母八幡宮

熊本県山鹿市鹿央町千田に“千田聖母八幡宮(ちだしょうもはちまんぐう)”という、創建が反正天皇三年(AD408年)とされる古い神社があります。この神社は大和朝廷以前に遡る九州王朝時代の痕跡を留める高格式の神社であると考える神社研究者もいます。

画像1 神社参道


Tida01

 

この神社は現在の山鹿・菊池にあった古代湖“茂賀浦”が弥生時代前期頃に陸化した辺りにあります。この茂賀浦の汀線は縄文時代の末期には標高45mライン位にあり、次第に湖は後退していって、弥生前期には標高37m付近(古閑地名が多い)、弥生中期には30m付近(島地名が多い)、そして弥生後期には茂賀浦は消滅したといわれます。この神社が創建されたという時代には北側に稲作に適した肥沃な大地が広がっていたことになります。

 

画像2 古代湖“茂賀浦”。かつては50mライン近くまで水で覆われていました。


Tida07_2

 

この神社の鳥居に掲げられた神額や案内板には千田(聖母)八幡宮・聖母宮・八幡聖母宮などとあって統一感がありません。楼門に辿りつくと扁額には“霊廟”とあります。霊廟といえば先祖の霊をお祭りするところで、通常は神をお祭りする神社とは分けられるものです。

 

画像3 “霊廟”と書かれた扁額。

Tida02_2

 

拝殿横の由緒書を見ると主祭神は神功皇后、相殿は應神天皇・仲哀天皇となっています。“聖母”とは神功皇后のことなのでしょうか。参拝を済ませ周りを見回すと拝殿にある御神紋は八幡宮によくある“三つ巴”の紋ではなく“五七の桐”です。これは高良玉垂命の紋で、神功皇后は “三五の桐”と聞いています。

 

画像4 由緒書


Tida03_2

 

本殿の大棟にも“五七の桐”があり、千木は男神を示す外削で、鰹木も奇数の三つになっています。近年は宮司さんでもこの千木の意味を軽んじることがあるようですがそれは誤りで、この神社の場合も元々の祭神は神功皇后ではなく、どの時代かで入れ替えがあったと先ず見るべきだと思うのです。

 

画像5 大棟の神紋・千木・鰹木は祭られているのが男神であることを示しています。


Tida04_2

 

では元はどなただったのか、私にわかるはずはないのですが、こういうときは格下扱いになっている祭神の中に本当の、格式の高い神がおられると神社研究者の間では考えられているようです。この神社の由緒書からいえば厳島之大神(瀛津嶋姫命)・住吉之大神(五七桐紋 高良玉垂命?)・武内神社(武内宿禰)というところでしょうか。

 

熊本県神社誌でこの神社を見ると祭神は“神功皇后外二神(七柱)”と一纏めになっているのに境内社はそれぞれに神名が記されています。末社の神々だけでも秘められたものがありそうで、祭神の詳細には意識的に触れていない感じを受けてしまいます。この神社の実の主は男神であり、神社研究者の説にあるように高良玉垂命ではなかろうかと思いました。因みに武内神社は武内宿禰、安部神社は安部助麿、若宮神社は仁徳天皇、諏訪神社は建御名方命、赤池天満宮は菅公等となっています。

 

画像6 境内社の諏訪神社と猿田彦大神石(2基)


Tida06_2

 

境内の末社、猿田彦大神へのご挨拶も済ませて境内の端にある古い手水舎まで来たとき、その水盤に目が留まりました。そこには“三つ柏紋”がありました。柏紋にある葉脈の数は定まっていませんがここにあるのは葉脈が六本の“メノラー(七支樹)”タイプです。奉納は慶應4年(AD1868年)で、武内何某と彫ってあります。あの武内宿禰ゆかりの方なのでしょうか。

 

画像7 あまり見かけない “三つ柏紋”


Tida05_2



神社研究者が言うように、ここには日本を代表する王朝が7世紀末まで九州にあったとする九州王朝説を考える上での重要なヒントが、祭られた神々とその祭られ方にあるように思われます。








«浄水寺跡(御手洗水源)