2018年5月31日 (木)

天岩戸岩陰遺跡(山鹿市)

夢のお告げというと何かしら怪しげな感じもするのですが、歴史関係では例えば古代エジプト時代、トトメス四世が夢に現れたスフィンクスのお告げに従いスフィンクスを掘り出したところ、本当に王になることができたとスフィンクスの足の間にある碑文に書かれていますし、近場の話では現在の玉名郡和水町にある江田船山古墳はその出土品が一括して国宝となっている重要な遺跡で、ここは明治の初めに地元の池田佐十という人が夢のお告げにより丘を掘って発見したといわれます。


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熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳。貴重な遺物が出ましたが、中でも日本最古の記録文書である銀象嵌銘がある大刀は同様のものが埼玉県行田市の稲荷山古墳からも出ていて、これらの大刀をめぐりヤマトの支配権の及んでいた範囲についての論争が続いています。


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このような有名な事例があるとしても、普通は夢に誰かが現れ、ああしろこうしろと言っても素直に実行できる人はそんなにいないと思います。しかしそういないだろうという中で、お告げにあった場所を古代から女神が潜んでいる所として世の中に知らしめて女神像まで建ててしまった人がいます。



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天岩戸岩陰遺跡の入口。道路に沿っていますがとてもわかり難いです。

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熊本県山鹿市菊鹿町にあるその女神像の由来には、
昭和4810月に神のお告げがあってこの天岩戸の大岩壁が開き、天照大御神(龍宮の乙姫様)が人魚姫の御姿で躍り出られた。そして一万二千年の間ここに隠れていたが、世界人類の破滅を救うため蘇ったと申された。このことを永遠に伝えるため昭和615月救聖母像が建立された。といったことが書かれています。


画像3.階段を上がりきるとそう広くはない平坦部に乙姫女神像があります。とてもよくできた銅像だと思います。敷地内は枯葉などもなくきれいに清掃されていました。

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さてこの場所ですが、お告げがあって
2年後、有志による事前調査の後、昭和50725日から同年1110日にかけて公式な発掘調査が行われました。すると出るわ出るわ、石器いろいろ・縄文土器・石製玉・骨角器・人骨・弥生土器・鉄器・土師器・貝輪・貝柄杓・牙玉・垂飾等々長い年月にわたる遺物が次々と出てきました。正式な遺跡名は天岩戸岩陰遺跡といい、発掘の詳細は菊池川流域文化財調査報告書に公開されています。



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岩陰奥は窪地になってます。結構深いです。誰かが在わすようでもあります。


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ここでは江田船山古墳のような、お宝と言えるようなものは出土しませんでしたが、大昔から人の営みが続いていたことは確かめられたわけで、この場所の地名
日向(ひむき)と合わせるとかつては太陽信仰があって、天照大御神のような女王もいたかもしれません。


この遺跡の川を挟んだ向かい側には川沿いに幅
100m前後の田んぼが続いています。菊池・山鹿で本格的な稲作が行われ始めたのは、このような谷あいを流れる川沿いの狭い平地と考えられていて、このことは菊鹿盆地と呼ばれる現在の稲作地帯がまだ茂賀ノ浦という古代湖・湿地帯で稲作が困難だった時代に、稲作の技術を持って渡来して来た人々が既にいたと思われることと整合します。



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遺跡前の田んぼ。古い田んぼの遺構が出てくれればと思います。


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その人達はどこから来たのか。この地域には植物では、揚子江流域を原産地とする相良トビカズラ、チャンチンモドキ、またウテナ台地の城ノ上遺跡から見つかった弥生土器(野辺田土器)に付いた揚子江下流域が原産のジャポニカ種の籾痕があり、墓制ではこれも揚子江流域に見られる横穴墓が菊池川流域には全国の約半数があります。特に天岩戸岩陰遺跡近くの瀬戸口横穴墓は
300基の横穴があって一箇所としては全国一の数となっています。伝承でも紀元前473年、呉王夫差の子(公子忌)が菊池の神来(おとど)に着いたとあり、揚子江流域からの継続的な渡来があったと思われています。


天岩戸岩陰遺跡は縄文時代前期から現代までたくさんの人々に関わり、いくつもの時代の移り変わりを見てきた貴重な遺跡といえそうです。











2018年4月30日 (月)

拝ヶ石 南のメンヒルⅡ

拝ヶ石巨石群の中には一年を三分割するような現象を示す石が複数あるということについては、これまでの拝ヶ石関連記事でご紹介してきました。その一つの南斜面にあるメンヒルについては観察時刻が大雑把で、メンヒル天辺に当たった太陽光が、その下にある丸い石にいつ頃どのような影を作るかは正確にはわかっていませんでした。一見メンヒルの南面は平らで形が整っていいるように見えますが上側と下側でかなり捻れています。全体の形状・寸法も不明で予測するのは難しい状況です。そこで今回は実際に現地で南のメンヒルを重点的に観察してみました。

420日は二十四節気でいう穀雨。1159分に黄経30度、熊本地方の南中時刻は1216分でした。先ずはこの南中時刻のメンヒルの影を観察しました。画像1.は南中17分前のメンヒルと丸石の様子です。丸石の上の影は樹木で、メンヒル頂部の影が少し離れて直線状にのびています。


画像1.

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画像2.はこの日の南中時刻の影の様子です。南中高度は68.7度。このときメンヒルの影は丸石の端から約10cm離れてできました。この時期の影のでき方は曲線を描きますが南中時刻一点に絞って観察します。当初の予想は420日穀雨の頃から丸石の上に影ができるということでしたが、もう少し日数がかかりそうです。実際のところ、この石が人の手で置かれたとして、石の位置や地表に現れている様子がオリジナルな状態なのか不明ですが、とりあえず“南中時刻に影が落ち始める日”がいつなのかを確かめます。

画像2.

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とは言ったものの毎日現場へは行けず、2回目は6日後の426日でした。この日の南中時刻は1216分、南中高度は70.7度で6日前から2度上がっています。画像3.は12時頃のものですが、丸石に影ができています。

画像3.

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しかし、この影は次第にメンヒル側へ後退します。そして426日の南中時刻の1216分、一旦退いた影は画像4.のように丸石の端から約5cmのところにありました。420日の観察結果と合わせて影は420日の南中から約15cm動いたことになります。これを6日で割れば、この時期の太陽の影は1日に約2.5cm移動することになります。これから予測される丸石への影のでき始めは424日です。

画像4.

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24日の南中高度は70度で、この後再びこれと同じ高度になるのは819日です。この期間の日数は当日を含めて118日。一年の大よそ三分の一の日数になります。南中時刻を過ぎると影は画像5.のようにメンヒル側へ退いていきます。

画像5.

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南中頃の太陽をメンヒル南面から見上げると画像6.のように見えます。メンヒルの捩れのため影の落ち方は一様ではありません。夏至の頃ほど太陽高度がないため周りの木の影響があったり、時々曇るなどして正確な影観察はできませんでしたが、この時期の大よその影の動きがわかりました。次回は819日に検証する必要があります。

画像6.

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この丸石と太陽の影の関係が確かめられると、西の巨石群にある石組内にできる光の三角形のでき始めをいつとするかの判断の大きな拠りどころになります。拝ヶ石巨石群に見られるいくつかの現象は古代米の栽培時期を示すものではないかという思いがあります。426日の石組の前(画像7.)は石の間を通過した太陽光と木漏れ日が混ざり合って、光の三角は見られませんでした。

画像7.

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今回観察の太陽の位置は画像8.のようになります。下段が420日、上段が426日。高度差は2度です。白丸は南中時刻を中心にその前後5分毎、合計30分間の太陽の位置です。この時期太陽は天球上を15分間に10度以上移動し、観察に手間取ると南中の瞬間を逃してしまいます。古代人の太陽観測はその高度を見ることだったとも言われますがこの場所もそうだったように思います。


画像8.

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2018年3月31日 (土)

西郷隆盛祖先発祥の地(菊池市)

今年のNHK大河ドラマは西郷隆盛です。その祖先は熊本県の菊池市西郷に居たのですが、そのことが話題になることはあまりないようです。菊池氏初代則隆の子で菊池十八外城の一つ増永城の初代城主西郷太郎政隆から数えて32代目が西郷隆盛です。彼は菊池一族だったわけです。そして西郷家が薩摩に移り住んだのは第26代西郷九兵衛昌隆のときだったといわれます。


画像1.“西郷南洲先生祖先発祥の地”の案内板

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西郷公民館の敷地内には案内板や石碑が建てられています。

画像2.西郷公民館の横には徳富蘇峰の筆による石碑

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画像3.西郷家系図、菊池十八外城の位置図もあります。


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公民館の直ぐ近くに増永城址があります。西郷氏代々の居城として長年、玉名・鹿本方面からの侵入に備えた平城跡ですが遺構は殆ど残っていません。この地にかつて城があったことを示すのはこの一角のみです。


画像4.増永城址

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画像5.その説明書

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西郷公民館の敷地内には若宮神社があります(公民館が境内?)。祭神はわかりませんが若宮神社なので仁徳天皇でしょうか。


画像6.神社入口の鳥居

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画像7.若宮神社社殿

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画像8.猿田毘古石塔

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社殿の横にはこの地域の神社お約束の“猿田毘古大神”。とても大切にされているようすがうかがえます。祖先発祥の地といってもこれといって特別なものはありませんが、西郷隆盛ファンなら一度は訪ねてみてもよいところでしょう。








2018年2月25日 (日)

北宮(国造神社 阿蘇市)

阿蘇北外輪山の裾、手野という集落に国造神社があります。神社の鳥居や案内板には国造神社とありますが社殿の神額には“北宮”とありますので、ここでは北宮と呼びます。主祭神は阿蘇神社祭神の健磐龍命の子である速瓶玉命・雨宮媛命・高橋神・火宮神の四柱。創建は崇神天皇18年(伝)ということでBC80年頃とされます。宮地にある阿蘇神社の方が由緒書では古いのですが殆どの人は北宮が古いと思っています。と言っても具体的な年代はわかりません。でも実際に阿蘇谷の集落は湿地帯を避けるように外輪山の裾に形成され始めましたから、地勢的に見ても祭祀場としては北宮が先ということはわかります。


画像1.北宮(国造神社)拝殿。


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そうなると北宮の主祭神が健磐龍命の子系列ではおかしくなってきます。そういう疑問に答えるかのように社殿の東側に小さな社があって、そこには“大ナマズの霊”が祭ってあります。由緒書には阿蘇大神(健磐龍命)が阿蘇谷の湖水干拓時に湖の精だった鯰を涸死させたので祀ったとあります。


画像2.阿蘇谷の標高地図。西側に向かって低くなっていきます。


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また、“下野狩日記”によれば、湖だった阿蘇谷を神武天皇が干したとき、北宮明神はナマズの姿で湖の主として横たわっていて、神武天皇が北宮明神に贄を供すると約束して下野狩が始まった。そして祭礼も始まりましたが、下野狩が全ての祭りの初めであるということです。しかし、阿蘇氏が編纂し1801年に完成した“阿蘇宮由来記”では健磐龍命の開拓神話が中心となって、ナマズとの約束は消えています。


画像3.北宮社殿の傍にあるナマズ社。


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北宮のナマズ社は、健磐龍命が阿蘇に入ったとき既にそこには阿蘇谷の開発を行っていた“ナマズ”に例えられた先住者がいたことを示しています。後からやって来た健磐龍命は先住者を滅ぼし、あるいは従属させ、北宮も自分たちのものとしたのでしょう。母屋をとられたナマズとはどんな人達だったのでしょうか。


画像4.神社境内のナマズ像(穂坂阿蘇神社)。


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『隋書倭国伝』と『魏志倭人伝』の間に当たる『後漢書倭伝』には、「会稽の海外に東鯷人(とうていじん)あり。分かれて二十余国となる」と書かれていて、注釈によると鯷はナマズの意味だとされています。民俗学の谷川健一氏は「この東鯷人はナマズをトーテムとする人種と解することが出来る」として、「それらの住む国がどこであるか不明とされているが、強いてそれをわが列島の中に求めるとするならば、九州の阿蘇山の周辺をおいて他にはない」と述べています。


画像5.ナルメルのパレット


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話が飛びますが古代エジプトの初代の王はナルメル(メネス)といわれています。“ナルメルのパレット”と呼ばれる遺物には王の名前として鑿(のみ)とナマズが描かれていて、これは“荒れ狂うナマズ”という意味なのだそうです。このナルメルには“N-M”という音がありますがナマズにも“N-M”の音があります。各地の文明の最初の王、或いは最初の人間には「N-M」または「M-N」という音の組み合わせがよく現れるということです。ナマズとは阿蘇開発の始まりに最初にこの地域の支配者となった渡来氏族の総称ではなかったかと思います。


画像6.北宮近くの迎平古墳群(七ツ塚)5号墳から阿蘇山の眺め。


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ところでこの北宮から阿蘇高岳山頂に引いた線上に阿蘇神社も並んでいることは、いつ頃誰が言い始めたのか不明ですがよく知られています。現在の北宮の社殿もこの方向に向いています。しかし阿蘇神社の社殿群でこの線を意識したものはなく、本殿は西を拝する配置になっています。阿蘇神社は元々阿蘇中岳を御神体としているのですから、高岳を向く必要はありません。この線上に阿蘇神社があるのは北宮・高岳ラインを分断するためのようにも思われます。


画像7.北宮から眺めたカノープスとシリウス・太陽(立春)の軌跡。


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では北宮にとってこの線は高岳だけに向かうものだったでしょうか。ひとつ思いつくのは北宮からの星景色です。北宮から眺めると根子岳と高岳の間が真南に当たり、そこに低く南中するカノープスが見られます。縄文時代からの遺物があるこの地域で、稲作が始まったと思われる弥生時代中頃の紀元前200~400年頃に、そのカノープスの南中時刻に高岳上空にはシリウスがありました。太陽を除けば全天で1番目と2番目に明るいこの星の組み合わせはナマズに例えられる人達の祭祀、信仰の対象、また暦を作る指標であったかもしれません。

北宮にひっそりと祭られている阿蘇のナマズは、この地に最初に穀物の種を携えてやって来た、星の観測術に優れた近東からの渡来人達だったのではないかと想像しています。


















2018年1月31日 (水)

神来貴船神社(菊池市)

熊本県菊池市にある地名“神来”は“おとど”と読みます。この小さな集落に神来貴船神社があります。由緒書によれば延久2(1070)菊池則隆公がこの地へ無事に着いたことへの報賽 のため京都から勧請したとされ、高龗神(タカオカミノカミ)という水をつかさどる神が祭られています。

画像1.鳥居から拝殿を見る。

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境内の一角には船着場の跡があり、現在は神社の西100mを流れている迫間川の川幅が嘗てはここまで及んでいたことがうかがえます。この船着場の案内板には、千数百年前に菊池川を遡って、第12代景行天皇の一行が上陸されたところと伝えられているとあります。ということは貴船神社が造られる前から既に特別な扱いをされていた場所だったわけです。

 

画像2.貴船神社境内の舟つなぎ場跡。

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高龗神の他に境内にはこの地域の神社には必ずと言っていいほどみられる猿田彦大神、そして照大神(伊勢大神宮)が祭られています。

 

画像3.猿田彦大神。どこでも雨ざらしですが存在感があります。

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画像4.天照大神。

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ところでこの神来地区には“昔、高貴な人が船で神来に来て住み着いた。”という伝説があるそうです。景行天皇も古いのですが、住み着いたとなると違う人物でしょう。この“高貴な人”に関しての資料の一つに“松野連系図”というものがあります。その系図から孝昭天皇3年(紀元前473年)に呉王の子“慶父忌”がこの地域に渡来したという説を唱える研究者もいます。

 

画像5.松野連系図(国立国会図書館所蔵)

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画像6.貴船神社境内に置かれた古墳の石材(?)

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紀元前500年頃というのは日本に稲作が広まり始めた時代でもありました。この神来近くの台(うてな)台地から出た弥生土器についていた籾痕を鑑定した結果、揚子江流域が原産地であるジャポニカ種であることがわかりました。

 

縄文時代の終わり頃まで菊鹿盆地の標高45mライン位まではまだ“茂賀ノ浦”と呼ばれる湖で、弥生時代の終りの3世紀頃までには湖は標高30m辺りまで後退し、稲作に適した湿地が次第に拡大していったといわれています。画像7の標高地図にあるように、起源が古いとされる神社は標高50m辺りにあり、稲作が伝わった時期にそれに関わった人々の拠点となっていた場所ではないかと考えられ、神来貴船神社もそのライン上にあります。

 

画像7.菊鹿盆地標高地図。

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神来に舟でやって来た“高貴な人”とは誰だったのか。日本に新天地を求め稲を携えて海を渡り、有明海からまだ川の形も定まらなかった菊池川、迫間川を遡り、神来に辿り着いた渡来人がいたことは間違いないことでしょう。弥生時代初め頃の大陸情勢を思えば、この地域に最初に稲作をもたらしたその人たちは呉王の子孫だったという話にも頷けるものがあります。








2017年12月31日 (日)

押戸ノ石(阿蘇郡南小国町)

熊本県南小国町の南部、標高845mの丘陵地に“押戸ノ石(おしとのいし)”と呼ばれる巨石の一群があります。ここは近年パワースポット、スピリチュアルスポットとして有名になりました。確かにそんな雰囲気の風光明媚な場所です。


画像1.押戸ノ石巨石群全景 (Google earth)


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ここにある巨石群は今から25年ほど前に古代遺跡として紹介され、石に四千年前のシュメール文字があるとかケルト人が来ていたとか、普通の歴史家が聞いたら卒倒しそうな話が在野の研究者によって広められ本にもなりました。考古学的、民俗学的な裏付けのない思い入れだけでできあがった物語だったのですが、それは今も地元に引継がれ観光事業に一役買っています。所詮何があったかわからない大昔のことなので真実はさて置き、皆が楽しめればそれはそれで良いのだと思います。


画像2.押戸ノ石案内板


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しかしこの場所に、いつの時代かの古代人がやって来ていたということは全くなかったのかといえば、そうでもないように思うのです。それはこの“押戸ノ石”という呼名と位置によります。ここは熊本県南小国町で阿蘇外輪山の中にあるので、現地で福岡方面との繋がりを意識する人は殆どいないと思うのですが、この押戸ノ石は福岡県の筑後川の流域南端にあります。


画像3.筑後川流域図

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筑紫地方に入植した渡来人が筑後川の源流を探して川筋を遡ったとしたら、最後に辿り着いたところは押戸ノ石があるこの地域だったはずです。真鍋大覚の『儺の国の星拾遺』(P201)に次のような話があります。

「八幡を若宮という。胡人を太身弓(身+弓で一文字、おおひと)と書いた由来があった。筑紫の方言で“わか”は“おおきかり”の略ととっていたからである。伊豆田方太仁、日向那珂飫肥、周防厚狭宇部などいずれも“うわひと”の倭訳で、舟人の古語であった。筋肉隆隆たる逞しき裸身の形容であった。神代紀に青人草なる語がみえる。“あをひと”とはまさに大身の胡人であり、あきらかに緑眼を意識した描写である。」

ここに書かれているような“おおひと”と形容される大柄な胡人(中国から見た北方や西域の諸民族・ソグド人)の一団が押戸ノ石に辿り着いていたかもしれません。その主な目的は鉱物資源の探査であっただろうと思います。他にも地元紙(熊日新聞)の記事“巨人伝説”によれば、県内には大人足(おおひとあし・おくとがし)、大人(おしと)、大人形(おひとがし)、大跡(おおあと)などの巨人にまつわると思われる地名が残っていて、実際、昭和十年代には不知火町の古墳から身長約2mの人骨が出たということです(現在骨は所在不明とのこと)。


画像4.押戸ノ石 東側の一群  奥にある尖った石が最も大きく、高さ5.5m、周囲15.3mといわれます。


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画像5.押戸ノ石 西側の一群  三角形をしたファリックストーンの先端部分には石全体を男性器に見立てた線刻があります。風化によるものではないと思いますが、いつ頃からあるのかもわかりません。

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源流まで辿り着いた彼らは周囲が見渡せる、ほどよい大きさの巨石が露出していたこの場所を祭場として選び、遠い故郷と同じ星空の元で何かの儀式を執り行ったかもしれません。

それを見ていた案内人あるいは先住者によって押戸ノ石、言い換えれば“おおひとの石”では“夜な夜な鬼が石でお手玉をして遊んだ”という伝説が残されたのではないかと思います。


画像6.本当に古代遺跡かはさておいても、人によって様々なイメージが膨らむ場所であることは間違いありません。


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2017年11月25日 (土)

幅・津留遺跡

熊本県道28号線バイパス工事の阿蘇郡南阿蘇村と高森町に跨る区間の事前調査で、弥生中期後半から後期後半にかけての遺跡が発掘されました(調査は既に完了しています)。遺跡の概要は当時の新聞切抜きをご覧いただくとして、この中の記事で特に注目したのは地面に突き立ててあるという“標柱石”でした。標柱石というからには巨石とはいわないまでも、せめて人の大きさくらいはあるのだろうと期待して説明会に出かけたのですが、それはまさに驚きのサイズでした。

 

画像1.地元紙(熊本日日新聞)の記事。

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この立柱石は新旧両方のムラから出土していて、その長辺が阿蘇山の根子岳を指しているということで、山岳祭祀に関係したものらしいことが言われています。山を見る位置に幅がありますし、山も幅広いので、どこか一点だけを見ていたということはなさそうに思えます。でも本当に見ていたのは山なのでしょうか。何か目標物を定めるときはやはり“点”だと思うのです。

 

画像2.これが“立柱石”。小さい!

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画像3.現地見学会の配布資料の立柱の説明部分。配布された資料と同じものが県の文化課のページにPDFで載せてありましたが再度検索したときは見つけ出せませんでした。

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画像4.立柱石に跨り石長辺の方向を両手で示す担当者と根子岳方位図の合せ図。


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この立柱石が指し示すという根子岳の上に星はどのように見えるか、弥生後期西暦200年頃の星図を見てみました。画像4.で発掘担当者が立柱を跨いで両手で指し示している方向には北斗が立ち上がって見えます。中でも明るい星アルカイド(ベネトナシュ)・アリオト・ドゥべの三星は同じ方角(経線上・N23度E)に整列します。この図は11月初旬の1時頃ですが、整列時には天の川が天頂にあります。冬の星座も南に集まり、賑やかな星の風景です。

画像5.立柱石の長辺が示す北北東方向の星空。 (例として西暦200年11月1日1時頃)

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画像6.同時刻の全天のようす。

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因みにこの時代はまだ水平の北斗も見えていて、アリオトの方位は353度。阿蘇山最高峰の高岳とは約1.5度のずれです。またここからは見えませんが阿蘇神社はほぼ真北に当たります。

 

この遺跡には立柱石の他にも根子岳方向を見ていたと思われる場所があります。画像7.は東のムラの遺構配置図です。この図の右端に17区という区域があります。画像8.はその拡大図です。

 

画像7.東のムラの配置図。道路建設に伴う調査のため掘削区域は細長くなります。遺跡は調査の後埋め戻され、この形の道路になります。(幅・津留遺跡現地見学会資料より転載)

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この図の右側にあるS178は他とは違って歪な台形をしています。その北側には丸い形をしたSX30がありますが、発掘担当者はここが祈祷を行うような場所ではなかったかと考えています。

 

画像8.配置図の17区の拡大図。(幅・津留遺跡現地見学会資料より転載)

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ここからは勾玉が2個見つかった以外に祭祀用具のようなものは出なかったのですが、竪穴中央からSX30を見た先には根子岳があり、意識的に山に向けられた配置に思われるということでした。

 

また、この一角の左側にSX32があります。この場所は焼けた土がかたまって発見されたため、土器を焼いたか、占いなどのために常に火を絶やさなかった場所ではないかと思われています。このようにこの区域がムラでも特別な場所であったと思われるのですが、祭祀場だったとすればその対象は根子岳だったのでしょうか。

 

根子岳の山容は周りの山々と比べ荒々しく確かに神聖な印象を与えますが、立柱石の示す先、祭祀施設に座った呪術者の視線の先にある景色は何の変哲もない山の東端です。そこに向かって祈るというのは考え難く、やはり小さな立柱石や祭祀場らしき跡が指し示していたのは根子岳そのものではなく山から昇る北斗で、死者を天に送る祭り、あるいは全ての農作業、収穫が終わったことを祝う祭り、そのような星の祭祀が北極点を中心に回転する北斗の動きに合わせて行われていたのではないかと想像しています。

 

画像9.こんな土器片も出ています。龍の線刻?(幅・津留遺跡現地見学会資料より転載)

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画像10.地元紙(熊本日日新聞)のもう一つの記事。


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2017年10月30日 (月)

チブサン古墳

山鹿市立博物館の近くにある熊本を代表する装飾古墳、チブサン古墳は全長45m(後円部径24m、前方部幅15.7m)の前方後円墳で、年代は6世紀頃とされます。今のような保護対策がとられる前は既に開口していて祠が置いてあったということです。開館日には午前10時と午後2時の2回石室内を見学できます(有料大人100円)。今見られる古墳の形は周りが削られていて、目立たない小さな石を地面に並べて元の形を示してあります。


画像1.古墳全景。右手の階段状に見えるのが石室の入口です。

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画像2.古墳の測量図

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名称の由来は石室内の装飾に乳房のように見えるものがあることから“ちぶさのこふん”、方言で“の→ん”になって、“ちぶさんこふん”といわれています。この円文は星か目玉にも見えます。丸に点の組合せは現代では太陽を表す記号になっていますがこれも特定の天体を表したものか、あるいは古代オリエントでは目玉紋様は魔除けでしたが同じような呪術的な意味がある印なのかもしれません。

画像3.石室の測量図

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画像4.石室の様子。撮影禁止なので案内書の画像を転載。 撮影OKでも中は薄暗くガラス越しなのできれいに撮るのは難しいです。

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東側の石板にある七つの円文は鏡か星といわれています。鏡が絵では権威が示されないので星だろうと思います。では何の星かといえば、星宿の図に描かれている昴に似ていて、これもそのように思います。他の装飾古墳にも見られる星と思われる円文もそうですが星の描き方は写実的ではなく、今の星座のように何かの形を模した見立てがないのは、一括りの星の群れは例えそれらを結んで見ていたとしても、その星の数しか認識しなかったためだと思います。


画像5.古墳傍の案内施設横にある石室のレプリカ(北・東側)。

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円文の下の人物は王でしょうか。海神の三叉矛のような突起の中央は先が平たくなっていて、朝鮮半島の慶州の古墳から出土した金冠によく似ています。この時代、この地域から朝鮮半島南東部を含む連合体があり交流があったことを思わせます。円文が農事暦の役割があったといわれる昴であったなら支配者層には重要な星だったはずで、描かれた人物が金冠を載せた王ならよい組合わせです。また人物の右横の図形は数字を示しているようにも見えます。根拠はありませんが例えば25とか。総じて見て東の石板の装飾は農業祭祀、星の祭祀の一場面ではないかと想像しています。


画像6.同じく石室のレプリカ(北・西側)

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北側の正面左にあったはずの石板はなくなっています。現場に割れた痕跡はなかったので持ち去られたのだろうということです。どんな図柄だったのでしょう。それだけを盗みたくなるほど魅力的なものだったのでしょうか。失われた石板に描かれていたのは大きな円文または船ではなかったかと思っています。

その他の図柄に三角や菱形があります。他の装飾古墳ではこれらがもっと密に描かれているところもあります。三角形は鱗紋とも呼ばれますが空間を埋めている何かを古代人はこのように見ていたのでしょうか、あるいは所々に印が付いた暦のようでもあります。6世紀頃の古墳だと、西暦522年6月10日にこの地方で皆既日食がありました。黒の色使いはそのときの記憶かもしれません。


画像7.案内板と埴輪、石人のレプリカ。石人は古墳のくびれの造出に立っていたそうです。高さ1.5mほど。実物はずっと上京中です。

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古墳の傍に作られた案内施設にある石室のレプリカもとてもよくできていて、少々古くなっていい感じになっています。でも訪れたときはできるだけ本物の石室を見学して、被葬者とその時代に思いを巡らしたいと思うのです。


画像8.西暦500年頃の8初旬の真夜中の星空。昴が真東にある星図です。北斗は北の稜線に横たわって見えます。この後、牡牛座、オリオン座が昇ってきます。

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画像9.西暦500年冬至の頃の真夜中、西の空に冬の大三角が聳えます。

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2017年9月30日 (土)

鶴木山神社(芦北町)

芦北町計石の美しい海岸線を見下ろす小高い山の上に鶴木山神社があります。この神社は第二次世界大戦の直前に現在の場所に遷座されました。境内の奉遷記念碑には次のように刻まれています。

鶴木山神社ハ元茂久迫ニ鎮座ス 奉齋ノ年月不明ナレドモ想フ二数百年前ナラム傅ヘ伝フ 此里開初ヨリ沖ニ不祥事無シト神徳顕現比ノ如シ 時恰皇國未曽有ノ時局ニ直面シ 御山ノ物資ヲ戴キ奉ラムト 町長篠原惟正鐘淵紡績會社ト圖リ 氏子亦之ニ賛同シ 神許ヲ請ヒ奉リテ 風光絶佳ナル此美岡ニ奉遷ス 夫レ氏子代々愈々益々崇敬祭祀怠ラズ比里ノ繁榮ヲ祈リ奉ル可キ者也矣

昭和十六年十月六日    社掌 草部宗尋 謹誌


(1) 奉遷記念碑

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元の鶴木山神社は今の神社から南東へ500m行った“鶴木山”にありました。それが記念碑にあるような事情で移されたわけです。碑文には物資が何か、それをどうしたのかについては何も書かれていません。鶴木山の現在の所有者は知りませんが一時期は石材を採る会社の所有であったらしく、実際に海側が大きく削られています。しかし、企業の採掘場にしては採り方が中途半端です。地元の方は何かご存知かと訪れたときに尋ねましたが戦前の話でもあり、遷座の経緯などは聞けませんでした。

(2) 鶴木山と現在の神社
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この鶴木山は高さ100mほどの小山ながら国土地理院の20万分の1の地勢図にも記載されています。昔から名の知られた山だったのでしょう。昭和10年頃の発刊と思われる『高天原』という小冊子には次のように紹介されています。

劒山と、三つ島、女島神宮
熊本市の南方、九州本線佐敷駅より徒歩一里足らずにして劒山(鶴來山)に至る、見るところ、何の風情もなき一漁村なるも、太古此處こそ、龍宮の本城なり、古事記に見る彦火々出見尊龍宮に至りてとあるは此の劒山の龍宮也、此の村落を囲む右手の山中に彦火々出見尊の御山稜あり、村民此れを氏神と稱し崇敬の的となし、此の墓に手を觸るゝものあらば村民こぞって死守す・・・



(3) 『高天原』


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著者はどこからこのような情報を得たのでしょうか。ツルギ山といえば、四国の剣山には古代イスラエルの王、ソロモンの秘宝が埋められているという伝説があるようですが、こちらの鶴木山はどうでしょうか。地理的な条件からみれば芦北沿岸地域は近東や南方アジアからの海洋渡来民の存在を考えてもよい場所です。

(4) 遷座した鶴木山神社から見た鶴木山

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もう一つ興味深いことは、ここから30Kmほど内陸に入ると、熊襲の地と見られている人吉市がありますが、その南側に高塚山(620m)というテレビの送信塔が建ち並んだ山があります。ここは昔から信仰の対象となっていた山です。山頂の巨石の上には小さな祠が置かれています。その周りには願い事を書いた丸い石がたくさん奉納されていて、芦北沿岸からも海岸の石を納めに来ていると聞きましたが、実際に“奉納 鶴木山 ○○○(人名)”と彫られた石の花立もありました。何のつながりがあってのことでしょうか。


(5) 鶴木山と高塚山の位置


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渡来人として考えられる集団に、古代中国の三国時代に登場する呉の国(西暦222~280年)から、西晋との決戦を目前にして日本に逃れてきた数万ともいわれる兵士たちがいるという説があります。芦北町の北隣の八代市には河童渡来伝説がありますが、これはこのときの呉人のことだといわれます。そして彼らは内陸へと入植していって、やがて熊襲と呼ばれる集団の中の一つの部族になっていったとされます。


(6) 高塚山山頂の巨石の上にある祠。周りには丸石が奉納されています。


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このように考える理由のひとつに、人吉市の東にあるあさぎり町の才園古墳(5世紀頃の円墳)から出土した鎏金神獣鏡(金メッキされた鏡)があります。この鏡は中国浙江省文物考古研究所により後漢後半(2世紀頃)から三国時代(3世紀半ば)にかけて、中国の会稽(現在の浙江省紹興)付近で鋳造されたものと鑑定されています。また三国時代の歴史書『呉志』には、種子島から来たらしい倭人が会稽で布を売買するという話が記されていて、熊襲が支配する南九州と中国南部との間で交易も行われていたと考えられます。


実際のところは今後の発掘の成果に期待するしかありませんが、はてさて気になるのはあの奉遷記念碑にある“御山ノ物資”とは何だったのだろうということです。


(7) “三種の神器島”とも呼ばれていたという鶴木山沖の不知火海(伊勢の海)に浮かぶ三つの小島。その先天草島を過ぎれば東シナ海。


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地中海のような雰囲気の不知火海はかつて“伊勢の海”と呼ばれていたそうです。その昔、この地で日本神話に残る出来事があったかもしれません。







2017年8月27日 (日)

装飾古墳(石貫)

全国に660基あるとされる装飾古墳の3割は熊本県にあり、そのほとんどが菊池市-山鹿市-玉名市を流れる菊池川流域にあります。横穴古墳のように保護対策がなされていないものでも1400年以上も前の赤や白の装飾が未だ鮮やかに残っているのは驚きです。星ではないかと思われる円文や、舟形の屍床は被葬者が海の民だったことを想像させます。また、今見られるような横穴式の古墳のつくりは二次的利用で、古墳時代以前に洗骨の風習がある先住の海洋渡来人が最初に今の横穴群を掘ったと考える研究者もいます。

 

■画像1.石貫穴観音横穴の案内板。

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今回は、数ある菊池川流域の横穴墳のひとつ 石貫穴観音横穴を見学しました。観音の名称は2号墓の奥に彫られている、作風から平安時代頃と推定される千手観音像によります。古墳の案内板にある1号墓の飾縁にはがいくつもあり、その中の三つが大きめに描かれているのですが、それはオリオンの三ツ星であるように見えました。この図を描いた人はそんな意識はなかったかも知れませんし、実際古墳に描かれている丸が案内板のように見える(?)わけではありません。そこでこの古墳からオリオンはどう見えたのか調べてみました。

 

■画像2.三つ並んだ横穴。左から1号墓~3号墓です。

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■画像3.1号墓の羨門の飾縁にはたくさんの赤・白の円文が描かれています。

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■画像4.横穴内部には入口左右と奥に一つの屍床があります。

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古墳は6世紀頃のものということなので、西暦550年頃の星図を描いてみました。古墳の西には“丸山”という山があります(方位266.2度)。この山の左手にオリオンの三ツ星が沈んでいくことがわかりました。このような星景色が見られる場所は他にもあります。それは熊本市最古とされる健軍神社で、その参道の先43Kmにある普賢岳(方位266.5度)の左にオリオンの三ツ星が沈みます。神社創建は西暦558年といいますから石貫穴観音横穴古墳と同じ年代です。

 

■画像5.横穴墳から見たオリオン三ツ星の入りの星景色。

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健軍神社の祭神筆頭にある健軍大神とは火国造ともされる健緒組のことで、肥後国風土記逸文によれば土蜘蛛の討伐報告を受けた崇神天皇が健緒組に海の民であるにも関わらずよく山の賊を討ったと言って功績を称えたといいます。健緒組は海洋渡来人だと言っているのです。石貫穴観音横穴古墳に葬られた人物と健緒組は同じ星の見方をする同じ氏族だったと思っています。

 

■画像6.横穴の西に“丸山”があります。方位は熊本市の最古社健軍神社から見る雲仙普賢岳と同じです。

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ところでもう一つ気になるのが、いつからあるのか知りませんが丸山という山名です。真鍋大覚は『儺の国の星(夜渡星)』の中でこう記しています。「・・・この時御船を迎え奉った伊覩の県主の船は伊蘇羅丸でありました。日本の船名に丸をつける最初の伝承がこれであります。まるとはMaru即ち星であります。船の総称にからもありましたが、Khalaもまた星の別名でありました。星をたゞ一つの頼みとして万里の波濤を夜通しわたる船人の祈りの心がこゝにありました。」

 

今でも家紋のは星紋と呼ばれています。丸山は星山と読み替えてもよいのかもしれません。各地にあるその山は星を重ね見る風景として、あるいは星を観察する場所として使われていたのではないかと想像します。星を頼りに海を渡った人々は陸に定住するようになっても様々な生活の場面で星と関り続けていた、その想いが装飾古墳の紋様に残されているのだろうと思います。

 

画像7.石貫穴観音横穴の南東400mにある“石貫ナギノ横穴群”。羨門の飾縁に円文・同心円文・三角文が描かれています。

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画像8.こちらは石貫ナギノ横穴群”の墓室内部のようす。屍床の横には太刀のレリーフが飾られています。

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