2020年2月29日 (土)

blank2002

blank2002

 

2020年1月31日 (金)

一ノ峯Ⅱ(西原村)

1月13日(1/19再)に放送されたNHKスペシャル『アイアンロード〜知られざる古代文明の興亡〜』は『ブラタモリ「浅間山〜江戸時代の大噴火!衝撃の1日に何があった?」』以来の感動ドキュメンタリーでした。僅か1時間では説明の及ばないところはあったものの、鉄器の独占により一大勢力となっていたヒッタイトが紀元前1200年頃に滅び、その後スキタイと呼ばれる人々によってその製鉄技術が東進していったようすが最新の発掘成果を基にドラマチックに描かれています。


写真1. 『アイアンロード』の番組案内

Fb01-600px

 

今回あった放送は2月7日・14日放送予定のBS4Kスペシャルのダイジェスト版みたいなものらしく、古代鉄に関心がある方はぜひそちらの本編をご覧いただきたいと思います。また、2月12日の歴史秘話ヒストリア(総合)では『弥生日本鉄物語』が放送されます。


写真2. 番組画面から遺跡の位置と東進経路。途中で二つに分かれ、一旦南に向かったルートはやがて日本へ繋がります。

Fb02-781px

 

この番組を見て二つのことを思いました。一つは番組には全く登場しない話で、何千キロもの距離を北緯50°辺り沿いに東進していった人々が目印にしていた星は何だっただろうということです。その道筋は南の砂漠と北の森林に挟まれており、製鉄の燃料を入手するため必然的にこのような同緯度地帯を通ることになったようです。しかしそのような帯状の間を進むにしても、直線道路があるわけではないので、移動中の自分達の位置は常に確かめていたと思います。


天頂に見える同じ星を目印にすれば迷うことなく東へ進める、或いは西へ戻ることができます。しかしこの時代、紀元前800年から300年頃に北緯50度辺りで見たとき、天頂に単独の明るい星はなく、星座では白鳥座やカシオペヤ座が少し離れてあるといったところです。彼らは船の天文航法と同じく、必ずしも明るい星でなくとも、季節によって地平線から上がる、または沈むいくつかの星々を組合せ、目印にして移動していたかもしれません。でも未だこれだという考えが浮かびません。


東の方位に関してだけ言えば、BC500頃を想定すれば双子座のカストル(N90.16E)とポルックス(N90.00E)が真東に並びます。時代が下るほど精度が上がり、BC300頃だと二つともN90Eに並びます。縦並びなので観測し易く正確な東が得られるのでこれは有効だったと思います。


写真3. BC500頃、北緯50°から真東に縦に並んだ双子座のカストルとポルックス。

Fb04-bc50050-600px

 

もう一つは二十年ほど前、西原村の一ノ峯に登ったとき以来、頭の隅にあった自然の風を利用した製鉄方法“野だたら”です。この番組ではヒッタイトが肥沃な川沿いに住まず、山際で生活していたことが紹介され、その理由は自然の風を利用した製鉄にあったという説明がありました。その岩山の風景を見たとき西原村の一ノ峯を思い出しました。


写真4. 番組画面からヒッタイトの遺跡の岩山(ビュクリュカレ遺跡)。

Fb0302-600px-img_4287img_4288

 

写真5.西原村一ノ峯。東側からのようす。写真のように特徴的な火山で、急斜面に多くの岩が露出しています。

Fb05-600px-dscn1677

 

数年前まで通勤のため阿蘇外輪山の西側を毎日車で通っていましたが、峠を越えて西原村の集落に下って行く辺りはいつも木々が揺れていて強めの風が吹いているように感じていました。その通勤路の南にある一ノ峯という岩山では古代の製鉄方法である野だたらが行われていたのではないか、山頂近くに“國之御柱命”(=志那都比古神=級長戸辺命=記紀にある風の神)の石が祀られているのは、風害から農作物を守るためというのは後付けの話で、その始まりは製鉄のために風の神を祀ったのではないかと思われました。


写真6. 一ノ峯の斜面の一角。常に風が当たる場所を岩で囲って製鉄炉を作った…でしょうか??

Fb06-600px-dscn1678

 

村役場の教育委員会にはこの地域の製鉄遺跡や一ノ峯に関した資料はなく、直接地元で調べると何かわかるのではないかということでした。近くでもありますので何度か通ってみようと思います。

 

写真7. 一ノ峯に散在する重なった石のひとつ。元々小さな火山の山頂付近なので侵食の過程で積み重なることはあまりないと思うのですが。

Fb07-600px

 

 

 

 

 

 

2019年12月31日 (火)

現地説明会・シンポジウム(阿蘇市ほか)

平成28年熊本地震で倒壊した熊本県益城町役場の敷地発掘調査成果の現地説明会があったので見学に行きました。熊本県立装飾古墳館のページで開催を知ったのですが、案内内容にこれは見たいと思わせるものがなかったので予定していなかったところ、ちょうどその方面に用事ができたので途中寄ってみました。ところがあまり期待せず行ってみるとこれが結構面白かったのでメモ兼ご報告です。

 

写真1.今回の調査区域のほぼ全景で西から東を見たところ。遠くに阿蘇山が見えます。町役場の駐車場があった場所ということでした。

Fb000-800px-img_4059 

 


(1)周溝状遺構:
小判形で長軸7.4mの遺構の周りを幅70cm程の溝が囲んでいます。弥生遺跡ではよく出土し、福岡地方から200年ほど遅れて熊本でも見られるようになったらしいです。ところが集落内で見つかることが多いのに内部から遺物が殆ど出ないため、何のための施設だったか未だ不明なのだそうです。ここでも何も出ていないということでした。

写真2.長軸7.4m、短軸4.6mの小判形。周囲の溝幅約0.7mということです。用途不明。

Fb000-800px-img_4063

 


(2)建物跡:
今回の調査区域の広さは約2300㎡、この中央付近から二つの竪穴建物後が見つかりましたが一つは弥生後期、もう一つは奈良時代頃のものだそうです。弥生時代は一軒家です。何か特別な建物で特別な人が居たのでしょうか。

写真3.判り難いですが手前が奈良時代頃のもの、その向こう、白いパネルを持った人物が立っている所が弥生後期の建物跡です。

Fb0000-600px-img_4064

 


(3)甕棺:
調査区域東側からは甕棺が出ました。今のところたった10基ですが(a.)甕を二つ合わせたものではなく1個タイプ。(b.)壺形もある。口が小さいのでモガリの後納骨したのかも。(c.)棺の年代が縄文終わり頃(?)から弥生後期と幅が広い。(d.)棺は二つが一組になって埋葬されているように見える。(e.)棺を斜めに埋める、水平に埋めるなど埋葬方法に違いがある。

写真4.甕棺の出土状況。二つで一組に見えます。

Fb000-800px-img_4073

 

写真5.こちらも甕棺。長年の土地利用で上部は破壊されたようです。こちらも二棺一組に見えます。

Fb000-800px-img_4072

 

といったところです。埋葬向きについて質問したところ、全体的には口を西側に、底を東側に向ける傾向があるようだということでした。何か東西ラインというのは意識されていたように思えます。

この役場敷地には大昔、どんな人が暮らしていたのでしょうか。建物や墓は少なく年代の開きが大きいです。縄文終わり頃から絶えず人が住み続けていたらしいのですが大勢で暮らしていたようには見えません。この遺跡の正式な名称は“宮園A遺跡”で区域としてはもっと広いのですが、今日見た限りで名付ければ“益城町独りぼっち遺跡”といった感じでした。まだ棺の内部は未調査で、人骨や副葬品など見つかれば遺跡の姿もわかってくるのでしょう。


続いてこちらは案内を見て予定していた、阿蘇市で催された『長目塚古墳発掘調査70周年・県史跡指定60周年出土品熊本県重要文化財指定記念シンポジウム 中通古墳群を考える -長目塚古墳の温故知新-』(なんて長い!)に行きました。しかしお目当ては長目塚古墳のことではなく基調講演の『弥生時代から古墳時代における鉄生産と阿蘇』でした。阿蘇地域の古代鉄文化にはとても興味があります。

 

写真6.シンポジウムのチラシ。

Fb


基調講演は要約すれば、
(1)弥生時代後期、阿蘇は北部九州と密接な関係をもち、豊後・日向(阿蘇と全く同じような鉄器が出る)との交流拠点だった。
(2)様々な道具類の鉄器化をなしえたのはベンガラを産していたからだった。
(3)鉄器を使用して多様な手工業特産品を製作していた。
(4)弥生時代の終焉(古墳時代の始まり)に集落の様相に大きな変化(活況がなくなる)がみられるが、これについては仮説化と検証を行っていく必要がある。
といった内容でした。


写真7.基調講演のようす。

Fb-1000px-img_4097


今日の話で阿蘇地方に出土する鉄の量、鍛冶工房跡の多さに改めて驚きました。しかも出土状態が良く、様々な製品加工用のいろんな種類の小さな刃物の形状、刃の付け方まで復元されていて、例えば木製品に残された刃物の跡がどのような鉄器で加工されたかの参考にされているというこです。

阿蘇に産出するリモナイト(ベンガラの原料)による製鉄については、阿蘇谷の遺跡から出た鍛冶滓から判明した獲得された温度が1180°~1310°になることから、その可能性についても言及されました。いつか製鉄炉跡が見つかることを期待しています。

シンポジウムのタイトルが“長目塚”なので報告講演の話も少し。長目塚古墳群は阿蘇市の中通にある14基以上(現存10基)の古墳で、そのうち前方後円墳は2基です。全体の調査は進んでおらず、今回文化財指定を受けた出土品は1949年の河川改修により壊されることになった前方部分の発掘調査によるものでした。驚くことに後円部は全く未調査なのだそうです。

 

写真8.会場にあった中通古墳群の一覧表。

Fb-800px-img_4094


阿蘇谷の古墳群は中期のものでその始まりと終わりがよく判らないということでしたが、ここでも出土した中国鏡は近畿政権から送られたものという話でガッカリでした。西暦400年初め頃の九州にそんな話はないだろうというのが素人の確信するところです。

 

写真9.中通古墳群の現地のようす。全体は収まりきれません。
写真の中段左端に河川改修で前方部の一部が壊され後円部分が残った長目塚が見えます。反対側の右端にはこの古墳群に二つある前方後円墳の片方の上鞍掛塚Aがあります。奥に霞んでいる山は阿蘇五岳の一つ“杵島岳”(1326m)です。

Fb-1000px-img_4107

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2019年11月30日 (土)

才園古墳(出土品展示 熊本市)

長い休館期間を経てリニューアルオープンした熊本市立博物館に行きました。お目当ての一つが熊本県南部の免田町(現あさぎり町)にある6~7世紀頃のものとされる才園古墳から出た金メッキされた神獣鏡(鎏金獣帯鏡)でした。以前は通路沿いの展示ケースに置かれそれほど大事にされているふうではなかったので、今回どのように展示されているか見たかったのですが、博物館改修後は同じく才園古墳出土の金の馬具などと共に専用の展示室ができていました。

 

画像1.才園古墳出土品の展示室

Fb000-02600px

 

撮影禁止ではなかったので昔のピンボケ写真を撮り直しました。他の馬具類も立派なもので、古墳は小さな円墳ながらこの地方一帯を治めた首長の墓と考えられています。この鎏金獣帯鏡は他に福岡と岐阜に1面ずつ出ているだけ、しかも才園古墳の鏡の縁には華麗な文様があるという大変に珍しいもので、以前に読んだ解説では、古代鏡研究の大家である中国浙江省文物考古研究所長の王士倫氏が調べたところ、後漢後半(2世紀頃)から三国時代(3世紀半ば)にかけて、中国の会稽、現在の浙江省紹興付近で鋳造されたものということでした。その時代は日本はまだ弥生時代後期で古墳時代には入っていません。

 

画像2.鎏金獣帯鏡(φ11.7cm)。とてもよく金が残っています。

Fb000-01600px

 

そんな時代にどうやってこの金メッキの舶載鏡が人吉盆地の奥までやって来たのか、それは当時のこの地域の支配者層が中国大陸との直接的、あるいは商人などを介した間接的な交易によって手に入れた、またはその元々の所有者が何かの理由でこの地にやって来たと考えるのが自然に思われます。ところが、せっかくこんな立派な展示室が出来たのに、鏡の説明にはこう書いてあります。

「この鏡は中国鏡で、3世紀ごろの鏡を元に5世紀代に鋳型をつくって新たに製作されたものでしょう。小型鏡ですが、鍍金鏡という点で小型鏡全般より上位に格付けされていたとみられます。豪華な金銅製馬具類にも遜色のない、貴重な鏡として九州南部の内陸の要衝である人吉盆地の有力者に、近畿中央政権から贈与されたと考えられます。」

王士倫氏の調査結果はいつの間にかすっかり消えています。以前の話を知っている人はたくさんいるのですから、何か新たな証拠が得られて見解が変わったのなら、その経過も示しておくべきでしょう。ここは誰もが訪れる公の博物館なのです。

大和政権とはっきり書いてないところがミソなのでしょうけれど、その年代に存在したのかもわからない近畿中央政権が、遠い九州の山奥の野蛮人と言っていた熊襲の首長に、自分のところにもないような貴重な金の中国鏡をプレゼントしたなどという話は奇想天外です。この訳のわからない最新の解説を別にすれば、リニューアル後の鏡の扱いはその価値に相応しく、とても素晴らしいものでした。

因みにこの熊本県あさぎり町免田の才園古墳から出土した“鎏金獣帯鏡”以外に出土している金メッキの鏡は、福岡県糸島市の一貴山銚子塚古墳(4世紀)の“鍍金方格規矩四神鏡”(φ21.2cm)、岐阜県揖斐郡大野町野村の城塚古墳( 5~6世紀)の“鍍金獣帯鏡”(φ20.3cm)の二面だけということです。

 

画像3.左側が一貴山銚子塚古墳出土の“鍍金方格規矩四神鏡”、右側が城塚古墳出土の“鍍金獣帯鏡”。

Fb000-600px-20191203

 

展示されている才園古墳出土の馬具(1)

Fb02600px-img_1938

 

展示されている才園古墳出土の馬具(2)

Fb01600px-img_1938

 

 

 

 

 

 

 

 

2019年10月31日 (木)

火焚神事“夜渡”(阿蘇市)

10月18日夕刻から19日の朝にかけて、阿蘇の霜神社恒例の“夜渡”神事が執り行われました。火焚乙女が火焚殿で59日間にわたり御神体を温め続けた神事が終わって二日後です。

 

写真1.10月16日の神事“乙女揚げ”で火焚殿の火が鎮められます。

Blog01-600px

 


写真2.神職が火焚所上の扉を開き竹棚の上に安置されていた御神体の入った黒い櫃を取り出します。不思議なことに煤は付かないのだそうです。これから天神での神事の後、御神体は霜神社へ遷座されます。

Blog02-600px

 

火焚神事について公に語られるのは、阿蘇開拓神の健磐龍命が家来の鬼八の振る舞いに怒って首を斬ったところ、天に昇った首の傷が痛むため鬼八は早霜を降らせて人々を困らせた、命は鬼八の恨みを鎮めるため霜神社を建てて鬼八を祀り、首を温める火焚神事が始まった、というものです。

 

写真3.この神事で火焚乙女の役目は終わりました。大役を勤め上げ、霜神社にて最後の玉串奉奠。

Blog03-600px_20191031090201

 


祭は神社周辺の三つの地区が輪番制で受け継いで来られました。狭い地域のとてもプライベートな祭で、見学はよいとしてもその内容に立ち入ることにはためらいがありますが、この祭の一つ一つの光景はその奥にあるものを知りたいという欲求に駆られます。

先ず不思議に思うのは、鬼八を祀るというのに鬼八の名はどこにも見えず由緒と現状が整合していません。一連の神事の始まりに際して祭壇に並んだ七枚の御幣は、霜が降り始める季節に地上間近に降り始める北斗七星を連想させますが、祭の中に北斗という言葉はありません。いつの時代かに誰かが意図的に祭祀の対象をすり替えたとしか思えない状況があります。

神事の中での火焚乙女の役割は御神体を温める火を守るだけというイメージで、マスコミの報道などでもこの場面だけが取り上げられます。しかし火を鎮めた後も火焚乙女は神事の中で重要な役目を負っています。この時点ではもう“火焚”を外して“乙女”と呼ぶべきかもしれません。そしてこの後に続く“夜渡”の神事は全く別の祭として見ることができます。

18日の夕刻、地表近くに北斗が姿を現す頃、天神(てんしん)と呼ばれる、ある人によれば宇宙と地上の通路、またある人によれば北斗が降りてくるという場所に向かい、七柱の神々をお迎えして神楽殿の周りを七回り半して中に入ります。

 

写真4。天神の大きな榊を伝って七柱の神が降りてこられます。地元ではここは宇宙との通路、あるいは北斗が降りてくる所と言われています。松明の明かりの中での神事です。

Blog04-600px

 


そして夜を通して神職による神楽と禊が繰返され、最後に乙女と共に土間の焚火の周りを五回回り、三三九度を交わします。そして再び神楽殿を七回り半して天神へ向かい、夜明け直前に七柱の神々をお送りします。夜渡という神事の進行は全てが北斗の動きに合わせてあるように見えます。

 

写真5.“夜渡”神事も終盤の朝5:30頃、天文薄明が始まって約40分後の北斗です。判りやすいように薄く線を引きました。左端の明るい星は現在の北極星ポラリスです。写真の明るさはほぼ実景どおりで、まだ北斗を肉眼で見ることができます。これから神楽殿内での最後の神事が始まります。阿蘇大明神(健磐龍命)に斬り殺された家来の鬼八は身分の低さにも関わらず時に“鬼八法師”と呼ばれますが、鬼八法師とは北斗七星に伴星アルコルを加えた“奇しき八つの星”、“奇八星”ではなかったかと思っています。

Blog5-fb-01-600px-img_1230

 

 

写真6.神楽が終わり焚火の周りを回った後、乙女と神職が酒を酌み交わします。

Blog06-600px-img_1252

 


写真7.祭壇のような台形地形の北外輪山に降りる北斗。西暦1年と2018年の比較図。

Blog07-fb-05-600px-191018

 

 

写真8.神楽殿での神事が終わり、神々をお送りするため神楽殿を七回り半して天神へ向かいます。

Blog08-600px 

 

鬼八伝承については阿蘇の東隣の高千穂にも類似したものがあり、征服者に殺害された鬼八の恨み(霜の害)を鎮めるため、こちらでは村の乙女が毎年生贄として捧げられ、これは戦国時代に日之影町中崎城の城主甲斐宗摂の命により猪一頭に変えられるまで続いていたということです。猪一頭を供える神事は“猪掛祭”として今も行われています。

阿蘇の鬼八伝承では人身御供の話は聞きません。しかし天神で天に帰る神々を見送るときまで神職に同行する乙女は、祭の最後に神々と共に地上から去っていくことを暗示しているようにも見えます。厳しい時代を生き抜いて来た人々の姿は今の農耕祭事の中にそっと織り込まれているのではないかと、そんな気がします。

 

写真9.やがて太陽が上がって来る時刻、天神では昨夜お迎えした神々をお送りする神事が執り行われます。16日の“乙女揚げ”神事でその役目を終えたはずの火焚乙女も最後まで同行します。

Blog09-fb-03-600px-img_1266

 

霜神社の始まりから現在までの変遷については、誰かがそれぞれに何かをご存じで、個別に書き記されたものもあるようですが、それらを一つにまとめたものはないようです。霜神社の本当の歴史を辿る手掛かりはもう間もなく失われてしまうのではないかと思われます。

 

写真10.天神で神々をお送りし全ての神事が終了した後の榊の根元には、神々の依代であった七つの御幣が残されています。星の神々は乙女を連れて天空へ帰っていった…のでしょうか。

Blog10-fb-04-600px-img_1273


(今回は雨天のため、添付写真は写りの良い昨年のものを使用しています)

 

 

 

2019年9月29日 (日)

『きくちの夜明け』

9月の菊池川流域地名研究会例会のテーマは『菊池のよあけ』でした。とても興味深いテーマで、内容は本なら500ページ以上にはなろうかというものですので要点だけを簡単ご紹介します。


画像1.当初の予定テーマは『狗奴国の土器』でしたが直前になって変更されました。参加者は25名ほど。

Blog01-600px-img_3497 

 

(1)菊池の始り
古代は鞠智(ククチ)と呼ばれた。713年の好字令により菊池になった。菊池から山鹿の菊鹿盆地は縄文時代まで“茂賀の浦(もがのうら)”という湖だった。弥生時代になり水が引き始めると“ククチ(水がピチャピチャしている土地の意)”という湿地帯になった。

(2)菊池・山鹿地域への稲作の伝来
湿地帯が出現した弥生時代前期、稲作と鉄器文化を携え黒潮に乗ってやって来た呉の一団があった。BC473年、大陸で国を失った呉王夫差の公子“忌”が現菊池市の“神来(おとど)”に渡来し、稲作を伝えた。


画像2.菊池市の神来貴船神社境内にある上陸地点とされる場所。誰々の上陸地点というのは神社になっていることが多いようです。

Blog03-600px

 

画像3.10月6日に上演される菊池市民劇『きくちの夜明け』のポスターです。

Blog02-600px-epson691

 

(3)地名について
“茂賀の浦”は元は“加茂が浦”。湖の水が引いていくに伴って陸化した場所に“島”地名が多い。昔の加茂川村の加恵という地区の名の起こりは“唐稗”で、稲作とともに揚子江流域からもたらされた稗を植えたことに始まる。“加茂”は揚子江流域の地名が伝わったもの。

古代山城がある木野(城野・紀野)は日吉系神社が多い。鞠智城の築造以前から紀氏の本拠地。日吉神社は比叡に連なり“稗”を伝えた神様。米作りは稗作りから始まった。

菊池川支流の豊田川周辺は“加茂〇〇”の地名が多い。加茂別雷社は九州王朝系の神社。九州王朝とは中国呉国の王“夫差”の子孫で、黒潮に乗り有明海沿岸に到達し、“茂賀の浦”湖畔に点在した小国家を取込み“狗奴国”という連合国家を形成した紀氏の一団である。

“倭名抄”に肥後国に98郷、菊池群には9郷とあるが“山門郷”だけが比定されていないのは意図的。出土する石棺の種類や礎石などからは台(うてな)台地と考えられる。


画像4.花房台地から眺めた菊鹿盆地の風景。ここが狗奴国(?)

Blog04-600px-dsc_0338

 

(4)揚子江流域からの渡来植物
山鹿市相良の“相良トビカズラ”、菊池高校敷地の“チャンチンモドキ”も加茂地名とともに渡来したもの。うてな遺跡出土の籾痕は揚子江流域原産のジャポニカ種。

(5)横穴墓
全国の横穴墓の60%が熊本県、その内の80%は菊池川流域にある。横穴墓は揚子江流域から渡来した風習。それは米作りを始めた人々の墓であり、長者を支えた人々の墓。古墳の周りには横穴墓が密集している。また、横穴墓は多くが阿蘇溶結凝灰岩に掘られているが、これには鉄器が必要。鉄器文化を持つ集団は日本では“カッパ”と呼ばれ、菊池川流域はカッパ伝説が濃厚な地域。

(6)狗奴国の誕生
湖の水が引き現れたククチと呼ばれる広大な湿地帯は、倭人の流入と共に水田稲作と金属技術が導入され、食料生産能力が飛躍的に増大し、強大な古代国家が形成された。菊鹿盆地の縁にあるいくつかの大規模集落は同一鋳型の鏡を保持し、土器の形(脚台付の野辺田土器)も共通していて、この種の土器が出土する一帯が狗奴国と考えられる。現在知られている菊鹿盆地の縁にある三つの大規模集落は同盟関係にあった。

当初の鞠智城に居たのは倭王系図にある松野連。鞠智城の先祖主は狗奴国の長官“狗古智卑狗(クコチヒク)”。呉王夫差の子“公子忌”は菊池の郡“山門(やまと)に住す”とある。倭国王として讃・珍・済・興・武の五代が続く。


画像5.復元された鞠智城。行政は“きくちじょう”と読ませますが、歴史を正しく知る人は“くくちじょう”と読みます。

Blog05-600px-r0013551

 

画像6.国立国会図書館所蔵の松野連系図。

Blog06-580px-100121

 


と以上のようなところです。湿地の標高の変遷と神社・祭神の関係も様々な氏族の入植の順序や権力争いが推測されて面白いのですが私の理解が足りないところがあるので省略しました。

私は邪馬台国論争にはあまり関心がなく北海道でも沖縄でもよいのですが、古代の強国“狗奴国”には惹かれるところがあり、狗奴国は今の菊池・山鹿地域だったという思いがあります。そうすると自ずとその北側に接することになる邪馬台国は日田地域までを含む筑前・筑後辺りにあったということになってしまいます。


画像7.菊鹿盆地の縁に発達した三つの大規模集落、狗奴国三国連合。

Blog07-600px

 


以前、『日本遺産』に認定された“菊池川流域二千年の米作り”にも書きましたが、時代が下って畿内に政権が移行した後でも、『延喜式』(927年)によれば西海道(九州)での肥後国の税の比率は26%と高く、当時の日本の全68カ国中、肥後国は陸奥国の次に多い納税国であったということです。陸奥国は出羽国を除いた東北のほとんどの地域が含まれますので、実質的には肥後国は当時の日本で一番の大国だったと言えそうです。

多くの兵を養うのに充分な食料生産力、そして鉄の武器。強力な弓から放たれる鉄鏃の矢の威力は邪馬台国の兵士を圧倒したでしょう。菊池・山鹿地域が本当に狗奴国だったのか未だ不明ですが、その時代の歴史に名を残して然るべき軍事力・政治力を持った連合国がここに存在していたことは事実と思っています。


画像8.出土品の参考に昨年の『方保田東原遺跡出土品展』のポスターです。土器にはビールジョッキのような形の持ち手付のものも見えます。

Blog08-600px-h30

 

 

 

 

2019年8月31日 (土)

北斗のアリオト(山鹿市ほか)


このブログの2017年7月30日の投稿に、熊本県山鹿市にある熊本県では少ない竪穴式石室を持った円墳、竜王山古墳について、その位置は北斗が水平(ミザールとメグレズの高度が同じ)に降りてきたとき、その北側2.55km、W83Nにある彦山の山頂上空にアリオトがあることを意識して決められたのではないかということを書いています。このような星景色が古墳時代とその前後の古代人にとって意味のあるものではなかったかと推測していますが、同様の県外の事例をいくつか挙げてみます。

 

画像1.これは前回ご紹介しました山鹿市の竜王山古墳と彦岳の位置関係。古墳から見てW83Nに彦岳山頂があります。現在竜王山頂北側には“龍神”と書かれた石が納められた石の祠があります。

Photo_20190831085201

 

画像2.古墳の推定年代のAD400年頃、北斗が水平(ミザールとメグレズの高度が同じ)に降りてきたとき、アリオトの方位(352.82度)と彦岳山頂の方位(353.47度)はほぼW83N。

Ad4000222-123800-02600px    

 

画像3は香川県丸亀市の讃留霊王神社(古墳)と飯野山の位置関係です。讃留霊王神社は讃留霊王(さるれお)という伝説の王(武殻王)を祀り、境内の古墳に王の亡骸は葬られているといわれ、その時代は西暦200年頃とされます。神社の北には讃岐富士とも呼ばれる飯野山が聳えていて、その秀麗な姿は平坦なこの地域で王の埋葬地を決めるときの重要な要素だったと思えます。ここでも古墳と山頂、北斗のアリオトとの位置関係は同様にほぼW83Nとなっています。

 

画像3.丸亀市の讃留霊王神社(古墳)と飯野山の位置関係。讃留霊王神社から見てW83Nに飯野山頂があります。

Photo_20190831085301 

 

画像4.AD200年頃(古墳の推定年代)北斗が水平(ミザールとメグレズの高度が同じ)に降りてきたとき、アリオトの方位(353.14度)と飯野山頂の方位(352.97度)はほぼW83N。

Ad2000226-120500-600px 

 

画像5は藤原宮大極殿跡地と耳成山の位置関係です。大極殿院跡中央から耳成山三角点を結んだ方位は352.26度。また、藤原京の建設が始まったとされる西暦690年に北斗が耳成山上空で水平(高度:ミザール 8.59度・メグレズ 8.60度)になったときのアリオトの方位は352.19度でした。ここでは約W82Nとこれまでより1度西寄りになっています。

藤原京に関わる有名な人物には、藤原不比等(659-720年)、同時代に活躍した石上麻呂(物部朝臣640-717年)等がいます。藤原京が新しい国家の首都であったのは694年から710年までの僅か16年間でした。藤原不比等によって都が平城京に遷った後、石上麻呂は藤原宮の留守官となりました。717年、石上麻呂は亡くなります。天皇はじめ多くの人々が追悼したといいます。それから1300年後の現在では、藤原宮から見えていた耳成山に降りる北斗は歳差により高度を下げて、耳成山に隠れるようになりました。

 

画像5.藤原宮大極殿跡地と耳成山の位置関係です。大極殿跡地中央から見てW82Nに耳成山頂があります。

600px 

 

画像6.AD690年頃(藤原京の年代)北斗が水平(ミザールとメグレズの高度が同じ)に降りてきたとき、アリオトの方位(352.13度)と耳成山頂の方位(352.26度)はほぼ同じW82N。

Ad6900222-122000-02600px

 

画像7.藤原京と北斗のイメージ図(星の位置と比率は正確ではありません)。

600px_20190831085301

 

 

画像7は奈良県橿原市にある7世紀頃の建造と推測されている益田岩船と畝傍山の位置関係です。益田岩船の用途については様々な説がありますが、現在最も有力視されているのは横口式石槨説で、施工の容易さから上から二つの穴を開けた後に横倒しにして利用する計画だったのが破損など不具合が生じたため未完成のまま放棄されたといわれます。またこの岩船の近くには牽牛子塚古墳があり、造りが似ていることから、この古墳に使用する予定だったという説もあるようです。

この岩船から北にある畝傍山の頂上の方位は351.7度になります。岩船の正確な年代は不明ですが仮に650年頃としますと、その年代に北斗のミザールとメグレズが水平(同じ高さ9.1度)になったとき、その間にあるアリオトの方位は352.2度で山頂とほぼ同じになります。0.5度の差で時間にすると約3分です。

 

画像8.益田岩船と畝傍山の位置関係です。岩船から見てほぼW82Nに畝傍山頂があります。

600px_20190831085302

 

 

この他にもいくつかの神社や古墳で、その位置や連なりが、推定される年代において北斗が水平に降りたときのアリオトの方位に合うものが見られます。アリオトの位置は、例えば今回のいくつかの事例にある年代のAD200年からAD700年の500年間では地球の歳差運動のため、西へ1.06度移動し、高度は2.58度下がっています。そして遺構の年代が下ると、そこから眺めるアリオトの方位も西に寄っていく傾向があります。

今から千年以上も前に、どのような方法で、どのような単位や精度で星々が観察されていたのかわかりませんが、それぞれの遺構に関係していた古代の誰かにとって、そのように北斗と地上の地形とを重ね見ることに特別な意味あったと思えます。真鍋大覚は『儺の国の星』に、「北斗を末期の水を掬う匙、南斗を復活の薬を汲む匙と見ておりました。北斗が人間の死を登録する神であり、南斗は人間の生を延命する神と崇められた所以であります。」と記しています。

事例にある丸亀市の讃留霊王神社から眺めた、飯野山頂から何かを掬い上げるように天に上っていく1800年前の北斗は、讃留霊王の壮大な葬祭殿の役割を果たしていたようにも思えます。同じような星の見方をするのは同じ氏族であったでしょう。彼らは日本各地に広がりながら、それぞれに北斗の中で最も光り輝くアリオトに、ある想いを託していたのだろうと想像しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

2019年7月31日 (水)

西原村(阿蘇郡)

遺跡や神社などを結ぶとしばしば直線や幾何学模様が現れます。自然の山々を結んでそうなるのは神の御業と言うしかありません。しかしそういった山々も含めて、ある特別な位置関係になるように人がその場所を測って造ったと思われる人工物が数多く存在します。今でいう測量というような技術的作業があったでしょうか、或いは人の特殊な能力が成せる業だったでしょうか。


画像1.一ノ峯にある東を見るような石。丸い穴は太陽か?それともただのガス抜け穴か?右手の峰続きの先が二ノ峯です。

600px01

 

 

日本の古代測量については、例えば大きな都の設計では方位を測るのに天体が利用されたと推測されていますが、遺物も文献もないのでどういう作業が行われていたか不明です。そういった測量作業を専門に担う渡来氏族がいたかもしれません。

古代の測量でいつも思い浮かぶのは古代ローマのグローマという道具です。簡単な作りですがローマ人はこれで都市や水道橋を建設していたのですから充分に実用的なものでした。日本にも同じようなものがあったかもしれません。

画像2.古代ローマのグローマを使った測量のようす。
(http://www.multicoopterdrone.com/la-serie-eravamo-la-groma/より転載)

600px03

 

 

巨石が並ぶ山に登ると、遠くを見るために置かれたような石をときどき目にします。熊本県阿蘇郡西原村の一ノ峯・二ノ峯にも人が巨石越しに東の景色を見るためにあるような石が存在します。また二ノ峯頂上を取り囲むように並ぶ巨石の東側の一つには天辺に銃の照門のような切れ込みがあります。

 


画像3.二ノ峯にある東を見るような石。天辺の切れ込みと蛇ふうの形は人工物か?天然物か?

600px02

 

これは東に見える天体、太陽や星を観察するための覗き穴のようなものだったかもしれません。この切れ込みがある石の面には、ただのキズなのか刻まれたものか判りませんが蛇のような模様があります。太陽と蛇を重ねたような図柄は、熊本地方のいくつかの巨石サイトの石面にも見られます。

 


画像4.阿蘇郡南小国町の黒川温泉近くにある太陽と蛇を重ねた(ように見える)石。
(現地同行者撮影)

600px04

 

そしてこの石の前に立って北側の山を見て、そのまま頭を南方向に180度振ると、向かいの山の稜線にポツンと一つ、小さな突起のように石が見えます。二ノ峯のこの場所が測量用語で言うトラバー点のようなものだとすれば、どこか基準になる地点から引き出した線を遠くの地点まで引きつないで、巨石を配置しながら何かのネットワークを築こうとしたのかもしれません。

 


画像5.二ノ峯の南側にある山の稜線。写真中央に小さな突起が見えます。測量観測点の目印か?ただの石の露頭か?

600px05


向かいの稜線上の石は写真では小さな粒ですが結構な大きさがあると思います。こんなとき、せっかちな現代人は超古代文明や宇宙人を持ち出して手っ取り早く話を済ませたがります。でも古代人は我々が思う以上に労を惜しまず、ひたむきに努力して石を配置し、さまざまな線を空間に引いていったのではないかなぁ…と山頂から周りを見渡しながら想像します。

 

 

 

 

 

 

 

2019年6月30日 (日)

拝ヶ石 190620(熊本市)

夏至は晴天が見込めなかったので、20日に熊本市東門寺の拝ヶ石へお昼の太陽を観察に行きました。夏至より2日早いですが太陽の位置はほぼ同じです。現地は予想どおり樹木が茂っていて、光の三角が見られるとは期待していませんでしたが、ほんの一瞬現れて、写真に撮ることができました。それでも光の中には枝葉の影があります。その前後、光と影が形を成さないまま交互に揺らぐさまは幻想的でもありました。この日の熊本地方の南中時刻は12:19で、写真の時刻は12:24です。この間に太陽は天頂近くを7度移動しています。


画像1.ほんの一瞬、石組に現れた三角。昭和4年頃の写真では巨石の周りには木がありません。刻々と変化する太陽の光をこの石組は映していたでしょう。長い間、石の周りに木が育たないように誰かが山の手入れをしていたと思われますが、地元の皆さんにも昔の状況がわかる方はおられません

001

 

今回は石組内部にいくつか見られる線刻のうち、円紋を特に念入りに観察しました。石面にはいくつかの円があります。人工的なものであることは間違いないにしても抽象的すぎて意味がわかりません。写真では大きな円が一番下にあり、小さな円は円軌道を回る天体のようでもあります。この石組が太陽の動きを反映していることから、実際に天体に関したものではないかと思われます。


画像2.円紋のようす。この写真は不思議です。目の錯覚で線が凸に見えることがありますが実際は凹で、紋様は陽刻です。瞬きで見え方が変わってしまいます。三重円紋(幅を持った円だとすれば二重)の直径は12cmほどあります。

002

 

画像3.拝ヶ石上空、太陽の一日の動きと、石組内の三角の動きのようすです。


003

 

石組から南へ20mほど下った斜面には南方向に傾いた立石があり、その下に丸い石があります。この石には石組の仕組みと連動するように、石組内に三角形ができる期間(4月中・下順~8月中・下順)、立石天辺の影が落ちます。但し、平坦に見える立石の南面は実際には捻れているため、どの時間帯にどのような影ができるのか、樹木の影の影響もあって詳細な観察はできていません。

画像4.傾いた立石下の丸い石。南中から38分が過ぎて、石を覆っていた立石天辺の影がもう石の半分ほどまで退いています。

004 

2019年5月31日 (金)

鯉幟

五月も最後、遅ればせながら鯉幟の話題です。南阿蘇村にある道の駅では今年も恒例になった高さ35mの鯉幟があがりました。

 

0001    

 

 

一般家庭で揚げられる鯉幟は地域毎に特色があるようですが、熊本では初節句のとき写真のように矢車の上に竹籠、杉の枝を取付け、家紋と子供の名を染め抜いた矢旗を掲げます。

 

0002

 

 

竹籠が何かについてはいくつか説があって、飛び出したヒゲのようなものが滝のしぶきを表す、馬簾(バレン)と書いて纏の飾りの意味などありますが、好きなのはヒカゴ(又はヒゲゴ)と言って太陽の輝きを表しているという説です。

 

 

この竹籠を見ると古代エジプトの太陽神の一つで先端が手になった光線を何本も放つアテン神が思い浮かびます。家によっては何本も伸びた竹の先に小さな飾りを付けるようでますます似てきます。鯉幟を見上げる楽しみの一つです。

 

0003  

 

 

竹籠から飛び出た竹ヒゲの先端に飾りが付いているもの。アテン神の伸びた手のようです。

 

0004

 

 

同じく、もう一例。

 


0005
 

 

 

 

 

 

   

 

 

  

 

 

 

 

«拝ヶ石と米作り